正社員の商品開発担当として働いていた私は、職場のカルチャーに対する違和感と死産による産後うつ、不妊による精神的負担などが重なり、専業主婦になった。この決断は、「社会的に恥ずかしくない人生を歩むには、できれば大手企業で正社員一択」と信じ切っていた私が、社会的な自殺を選んだのとほぼ同義だ。

当時は2021年。コロナ禍真っ只中での専業主婦は、孤独そのものだった。幸いにも不妊治療が実を結び、退職時には妊娠をしていたのだが、不用意な外出も憚られるので、基本的には産婦人科と家、スーパーを行ったり来たりする生活。産後うつの影響もあって、メンタルの起伏が激しい。「仕事をして、人とつながって、世の中の役に立ててこそ、生きる価値が得られると思っていたのに。自らそれを手放した私は、このまま生きてちゃいけないんじゃないだろうか」と、定期的に希死念慮に駆られた。

それでも死なずに今もしぶとく生きているのは、どうせ他人にとって価値のない自分の人生なら、死ぬ間際までは思いっきり自分本位に生きてみようと、どこか吹っ切れたところがあったからかもしれない。過去に諦めた「文章を書きたい」という夢を、もう一度追いかけ始めてしまったのだ。

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専業主婦になると同時に、キャリアスクールに入った。学んだのは、Webライティングのスキル。小学生時代、自信満々に書き続けた読書感想文で表彰台にも上がれず、誰の目にも留められなかったのがトラウマになり、文章への憧れを封印してきた私が踏み出した、無謀な挑戦。スクール内のコンテストでは複数回上位入賞し、1歳児を育てながらにして取材ライターデビュー。前職を辞めてから1年半ほどで、私は未経験からフリーライターになったのだ。

今の働き方になってから、標石を一つひとつ辿るように、小さな目標を少しずつ叶えてきた。記名記事を執筆したり、憧れの人や著名人に取材したり、不妊治療や妊活など、自分特有の経験が活きるジャンルのメディアで働いたり。数年前までは、考えられないほど私の人生は変わった。

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ただ、私の最終的に叶えたい夢は、未だ遠いところにある。「自分の人生から紡がれる言葉を、世の中に届けたい」つまり、エッセイストになるのが私の夢だ。

専業主婦時代から、創作プラットフォームでエッセイを公開し続けているけれど、思ったように人には届かない。なんてことなしに書いた文章が思いの外反響を呼ぶこともあれば、何度も推敲してこだわり抜いた渾身のエッセイが鳴かず飛ばずで終わってしまうこともある。世の中は嫌になるほど優れた才能だらけで、評価され、活躍している人が妬ましいし、「一体、誰が読んでくれるっていうんだ」って、書くのを辞めてしまいたくなる。読書感想文のトラウマの再来だ。

それでも、書かずにはいられない。あの日、社会から評価や価値、生きる赦しを乞うことを辞めた私は、夢のために書くこと自体が、人生最後の悪あがきになってしまったから。

「仕事をして、人とつながって、世の中の役に立ててこそ、生きる価値が得られる」かつてそう信じていた私が、お金も稼げず、思うように届かない文章をずっと書き続けることを生きる意味にしてしまうなんて、人生って本当にわからない。でも、生きることを放棄しないでいられるのであれば、それだけでもう、十分すぎるじゃないか。それは私だけじゃなく、他者も同じ。どんな人生であっても尊重したいし、懸命に生きようとする誰かの悪あがきを、どこまでも応援したいと思う。

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「自分の文章で誰かの役に立ちたい」と口にすることもあるが、やっぱり私は、自分のために書いているんだと思う。自分の書いた文章が、結果的に誰かの役に立つのであればとてもうれしいけれど、自分の想いを差し置いて書いたエッセイは、きっと私のエッセイじゃないから。

稀有な人生経験も、尖った独自の思想や信念もない。ごく平凡な、どこにでもいる女の、よくある自分語りに見えてしまうかもしれない。それでも私は、今日も夢のために書いている。今日も死なずに生き抜いたって、言葉にしてこの世に刻む。見てろよ社会。私、今日も生きてやるんだから。