特にひどかったのは中高生の頃で、朝の登校時間中に同級生とすれ違う時、挨拶したら何か陰口を言われるのではないかと気にするほどだった。自分がよかれと思ってやったことが相手に不都合だったり、余計なお世話だったり、そういったことになるのがとても怖い。怖いのだ。

だから私は、人との関わり方にはいつも気を使う。だけど、私は人と喋ることが好き。これは矛盾しているのだろうか。人の相談に乗るのは特に好き。その人の生き様を垣間見れる気がするから。

つまり、人を遠くから見てるのが好きなのかもしれない。そんなことから私の趣味は人間観察となっていった。

高校最後の授業、匿名の寄せ書きをみんなで書きあった。集まった寄せ書きを読んだ。そこには「よく人をみてるね」という言葉がたくさんあった。「あなたのあのときのことば、私を救ったよ」なんて言葉もあった。お世辞でも嬉しい、こんなことから言葉と言葉のやりとりの面白さに気づいた。

写真と人間観察の共通点

昨年4月、私は大学生になった。言葉以外で何かを表現したいと思い、写真を始めた。写真を撮る人、つまりフォトグラファーは、自分の作り上げた作品のなかにいない。
もちろん自撮りや鏡を用いて「自分」が、なかにいる写真もあるが、「被写体」と「撮影者」が異なっていることが多い。言い換えれば、フォトグラファーは「第三者」的視点から捉えた世界を作品にしているのだ。これは私の趣味、つまり人間観察と似ている。人間観察も写真撮影も、第三者としての自分から見た世界を構築するという点では同じなのかもしれない。

写真という手段を手に入れた私は、「私にしか撮れない写真」を模索し始めた。カメラという道具は正直なもので、全く同じ使い方をすれば誰が使っても同じ写真が撮れてしまう。だから、私しか撮らないような被写体、シーン、場所、構図を見つけなければいけない。

私の性格が写真にも生きている

ある日、撮りためた写真を眺めていたとき、ふと気づいた。私の撮る写真は、友人を撮ったものや、儚い花を撮った写真、何かのクローズアップ写真といった、ある対象に特化したような写真が多いのだ。そこで私は、人の目を気にする性格が、写真という作品作りでは役立っていることに気づいた。

人の目を気にすると、細かなところまで見てしまうことが多い。それはつまり、細かなところを捉えて作品作りにつなげることができる。これは私が今まで負だと捉えていた「人目を気にしすぎる」ことを活かせた結果になった。

よく見ているからこそ

これは、色紙にあった「人をよく見ている」ということにもつながるように感じる。人をよく見ているので、その人の趣味嗜好がよく分かる。友達のあの女の子は紅茶が好きで、どこそこのメーカーの食器を好んでいる。同じ写真部の男子はドイツビールが好きで、ソーセージといっしょに食べるのを好む。こういった知識をもっている私は、誕生日プレゼントで相手が喜びそうなものをすぐ思いつけるのだ。考えすぎる性格があだとなって何を贈ろうか決められないこともあるけれど。

色紙にあった「あなたのあのときのことば、私を救ったよ」という言葉も、その子のことを深く知っているからこそ、投げかけられた言葉だったのかもしれない。

今後私は大学を卒業し社会に出て行く。そのときは、広くはなくとも深くみることのできる人間になっていきたい、そう成長できる、と思っている。

ペンネーム:かなん

1999年7月東京生まれ。 幼稚園から大学に至るまで一貫して女子校に通う、女子校のエキスパート。 現在は大学で写真部に所属しており、人物写真をメインに撮っている。使っているカメラはキヤノンの6D MarkⅡ、レンズはSIGMA 85mm f1.4 (Art)。女の子の被写体、募集中。