胸の奥深くにへばりついて、ずっと解けない呪いがある。
記憶に残る始まりは、中学生の頃。
第二次性徴も始まって全体的に身体が変わっていく中、私の身体はそれまでより脂肪が付きやすく変化した。
自分自身でも身体の変化に戸惑う中、学校では「美容体重」の話が流行っていた。
自分の身長から120を引いた数の体重が女として理想的だという話で、当時は同級生がみんなそれに近づこうとしていたし、憧れていた。
教室で配られる身長別標準体重表なんか誰も気にしていなかった。「これで標準なんてデブすぎる」なんて声が聞こえるほどに。その頃、私は標準体重ぴったりだった。誰にもバレてはいけないと健康診断の結果の紙はいつも裏返してすぐに机に隠した。
肉付きが良いために「ふわふわ」だと言っておなかや二の腕を同級生に触られることも多かった。「太ってるから~」というと「感触が良い方が男にモテるよ」「ゆるキャラみたい」「安産型だよね」とみんなが言った。それでいてみんな、絶対私のようにはなりたくないと思っていた。私にはそれが悲しいほどにわかっていた。
そうやって少しずつ、私の身体は「女」として正しくないのだというメッセージを受け取るようになった。女として美しいとは言えないけど、子どもを産めるなら、男に求められるなら一応存在を許されると、そういう扱いなのだと思った。
私の身体は私のものではなかった。私は私ではなく「女」で、女の身体は社会のモノのように感じた。
呪いははっきり質量を持っていった
自分の身体を許せない。どうしても醜いと感じる。
これが思春期の頃に根付いてしまった呪い。どれだけ逃げても追ってくる呪い。
毎朝鏡を見るとき、Youtubeでダイエット商品の広告を見せられるとき、「癒される」からと断り無く身体を触られるとき、SNSでプラスサイズへのヘイトを目にするとき、買った服が入らなかったとき、「あと5キロ痩せればなぁ」と恋人に言われたとき、友達が「デブすぎて女として終わってる」と自虐しているのを聞いているとき、ふくよかな女芸人が酷いいじりをされているとき、ナンパを無視して「デブス」と罵られたとき、親に「あとちょっと痩せれば嫁の貰い手がね」と言われたとき、呪いははっきりと質量を持っていった。
高校2年生で無理なダイエットをして10キロ体重を落とし、標準体重を切ったあとも決して消えはしなかった。
Body Positive と出合って
それでも抑圧に無自覚だったわけではなかったし、負け続けていたわけでもない。
今では、Body Positive が「もう古い」と言われるほど日本にも浸透してきている。Instagramではまだまだ熱気も冷めやらないけれど。それだけ女の子たちにそういうメッセージが必要であり続けてるんだってよくわかる。
私も大学生になって、Body Positiveに救われた。
中高の頃よりも広い世界に触れて、私はどうやら自分の苦しみがこの社会の多くの女の子に課されたものだと気づき始めていた。Twitterでずっと見ていたダイエットアカウントの女の子が、ある日「なんでこんなに痩せなきゃいけないって思うんだろう」「世の中が女の美醜にこだわらない世界なら、もっと私も楽だったのかな」とこぼした。その後も彼女はダイエットをやめなかったけど、痩せれば人生が変わると他の女の子を鼓舞しようとする彼女も、もしかしたら他の誰かに動かされているのかもしれないと思った。
Body Positiveと出会った場所はあまり覚えていない。ネット記事だったかInstagramだったか、VOGUE JAPANの動画だったかもしれない。とにかく少しずつ、日本にBody Positiveが浸透していった時期に、様々な場所で様々なサイズの女性が自分の身体に対して肯定的なメッセージを発信する姿に出会った。
「他人の、社会の美醜の価値観や社会が勝手に決めた【正しい女の形】なんか自分に強制しなくて良い」と、「あなたはあなたのままで美しい」と、プラスサイズの彼女たちからの力強いメッセージは私の心を打った。よく考えれば当たり前のことかもしれないけど、わざわざ声を大にして言う人が居ないと誰もそんなことを言わないのがこの社会だったから。
「そもそも別に美しくなくてもいいんだ」と気づいたのもこの頃。
Body Positiveのムーヴメントでもよく「あなたは美しい」と言う言葉を聞く。他人の美醜の価値観から自由になった先でも、とりあえず美しくはなきゃいけないのかなと疑問に思う。プラスサイズだけじゃなく、シミとかシワとか妊娠線とかその他のどんな身体に起こる変化だって、この社会では「美しくない」とされることだって、どんな人間の身体にも当たり前に起こる変化で、そこに過度な意味づけ自体必要ないんだと思う。自分の身体を自然なものとして受け入れることができればそれでいいのかな、なんて思うようになった。
他人の声より、自分の声を聞いてほしい
私たちの身体は私たちのもので、他人の美醜に当てはめられて変わることを強制されるのはおかしいんだ。他人の声より、自分がどうしたいか自分の声を聞いてほしい。私の声はきっと、変わるなら自分のためにだけでいいと言っている。
そういうことに気がついたら、だいぶ気持ちが楽になった。自分の体型じゃ似合わないと倦厭していた服を着て、傷つくことを言われたら怒り、何か言われる前に先回りして自分で体型を自虐することをやめた。
私が痩せたいなら頑張ればいいし、他人の目線と価値観のためにやってるなら、やらなくていい。今の自分がいつだって一番自然なんだと思うこともできた。
化粧だってピンヒールだってなんだってそう、自分がやりたいかどうかを考える余地があることが大切。Body Positiveは私にその余地を与えてくれた。
私が今このエッセイをかけているのも、そうやって少しずつ呪いを解いてきたから。
高校生の頃の私ならきっと発信することもできなかったと思う。太っていることを知られるのも、それを気にしていることを知られるのも今よりずっと恥ずかしいことだったから。
勇気を出して書いたのは、少しだけ自由になった私から、未だずっと呪いの中で苦しんでいる同じような女性たちに私も戦ってるって、一人じゃないって、きっと自由になれるって伝えたかったから。
そんなこんなで、日々、普通に社会の発するメッセージに傷つきもしながら、揺り戻り、また進むを繰り返してる。私一人じゃ完全に救われることはできないから、多くの人にMY BODY MY CHOICEを大切にして欲しいと願ってる。
戦っていれば絶対に自由になれる
「呪いは消えない」
鏡を見て憂鬱さを感じてしまったときに、こんな声が頭にこだまする。
この社会で生きている限り毎秒呪いは降りかかる。いつだって再生産される。
でも絶望だけじゃない。戦っていれば絶対に少しずつ自由になれる。私が証明する。
自分の身体を好きになれない人へ、
他人の身体に干渉することをやめられない人へ、
あなたたちみんなに、その不自由を壊すパワーが備わってるはず。自分の力を信じて欲しい。
そんなことを考えながら鏡の前に立ってみる。
私の身体に「見本」なんて存在しないし、私も誰かの身体の「見本」にはなれない。
それにお気に入りのタイトワンピースもぴったり入ったし、いたって健康な私の身体にはそれだけで何の問題もない。
中学生の私と高校生の私が、鏡の中で微笑んでいるような気がした。
ペンネーム : Lily
ふぇみZINE製作委員会。日本の女の子の生きづらさを無くすためのフェミニズム雑誌「ふぇみZINE」の編集長を務めている。 現在、「ふぇみZINE」2冊目の製作のためクラウドファンディング実施中!