つい最近まで、病院の受付が大嫌いだった。理由は一つ。
「駐車券のご利用はありますか」
この問いのせいだ。この病院は近くの駐車場と提携していて、受診した患者に駐車券をくれる。私はこの病院に通院してこのかた、もらったことがなかった。
だって私は車を運転できないから。
それは私が高校を卒業してすぐ免許を取りに行かなかったとかそういう話ではなく、私に車を運転するだけの視力がないせいなのであった。視力が低いのはアルビノという遺伝疾患だから。2万人に一人の確率で生まれてくる、白い見た目で知られるその遺伝疾患は難病にも指定されている。現在、アルビノによる視覚障害に有効な治療法はない。
私は眼鏡をかけているが、あまり効果はなく、裸眼と大して変わりない視力にしかならない。
「駐車券のご利用はありますか」に「いえ、大丈夫です」と答えるとき車を運転できないことを突きつけられる。私は病院に行く度それを問われるのが嫌で嫌で仕方なくて、いい加減受付の人も覚えてくれたらいいのにとさえ思う。
毎回毎回、運転できないことなんか、目が悪いことなんか、自覚したくない。目が悪くて、できないことのあることなんか、自覚したくない。
かさぶたになっては、ひっかいて
しかもこの病院にはほぼ毎週通っていた。先週の傷が癒えたと思いきや、またあの問いをされてその傷をひっかいて出血する。受付の人に悪意などなく、ただ決まった問いを繰り返しているだけなのだということはわかる。ここで怒りだしたらただのクレーマーだ。でも何度かクレーマーになりそうになった。こんな覚えやすい見た目をした人間一人に駐車券のことを聞かないことくらいできるんじゃないかと思ってしまった。そんなことはない。毎日多くの人を相手にしているのだし、決まったやり方を続ける方が楽に決まっている。
つい最近まで、病院の受付が大嫌いだったと書いたので何か克服したように見えるかもしれないが、諸事情で病院を変えただけである。
「見た目問題」だけじゃない
アルビノといえば最近は「見た目問題」としても知られ始めているが、私は敢えて視力の話をする。だって、視力が低いというコンプレックスは消えてなくなってくれないのだ。
私には他にもコンプレックスと呼べるものが存在する。背が低いこと、せっかくのアルビノの色彩の割に顔のパーツが美しくないこと、話すのが下手なこと、それほど学力があるわけでもないこと……と挙げればキリがない。背が低いのは何だかもう諦めがついた。顔のパーツはどうしても気に入らなければ美容整形すればいいやと開き直った。話すのが下手なら書けばいいと書き始めた。学力は今からだってつけられる。大学に入り直すも大学院に入るのも不可能ではない。
でも、視力は、今現在有効な治療法はない。車の運転に代表される、視力がないとできないことを数え上げては沈んでいる。
みんなと同じものが見えているのかな
私は身内に愚痴を言ったことがある。 「どれほど多くの求人に、要普通免許ってあるかなんて意識したこともないでしょう」
身内は何て答えたのか、私は覚えていない。魅力的な求人だと思いながらスクロールしていったときの、下まで読んだときの、要普通免許の記載を見つけたときの絶望。
視力があれば、免許も取れてこんな苦労をせずに済んだはずなのに。もっとすんなり就職できたはずなのに。
視力が低いから、皆と同じものが見えているのか不安になる。皆と同じものが見えているかわからないから不安で何度も確認する。そんな私の研究室生活はめちゃくちゃだった。同じことをするにも倍時間がかかるし、やってもできているのかわからない。支援はあったけれど、そうした不安やコンプレックスは理解されてはいなかった。視力に対する支援はあった。でも視界が違うことを不安に思っているなんてそんなことは言えないまま低空飛行で研究室生活を終えてしまった。そしてそれはそのまま古傷になった。
視力が低いから負った古傷は、日常で不意に開く。
車でしか行けない場所にあるおいしいラーメン屋さんを見つけたとき。友人に車を出してもらうとき。
古傷はいつ開くかわからない爆弾だ。