今、私は29歳だ。しかも早生まれなので学年で言うと30歳。29歳と30歳には見えない壁があるらしい。現在転職活動の真っ最中だが、エージェントに相談に行くと30歳以上になると紹介できる求人数は幾分減ってしまうと言われた。29歳最後の夜も、30歳の朝も、きっと何も変わりない1日の続きのはずなのになぜなんだ、社会ってなんでこうも冷たいんだろう。

本当に、自分1人だけの世界があるのならそこに包まって、息を殺してじっとしていたいのに、結局私は社会との繋がりを断ち切れず、スマートフォンをいじくってしまう。同級生が結婚してもうすぐ子供が生まれるという噂。知らないうちに苗字が変わった友人からの数年ぶりに会わないか、というメッセージ。紹介出来る求人の数のみならず、周囲のライフステージも変わるものらしい。メッセージアプリをそっと閉じる。

占い師なんであなたの未来、見えますよ?

例えば迂闊に、既読をつけてメッセージに「いいね、会おうよ」なんて見栄を張って返信し、友人に会ったとしよう。自分が全くついていけない出産や結婚生活に関する話題にへらへら笑って相槌を打つことになるんだろうな、と夢想する。まぁまぁ値の張るイタリアンで、一度も美味しいと思ったことのないワインを注文して、ちびちび舐めながら自分には全く縁のない出来事について、あたかも知った風にアドバイスし、背中を押す自分がまぶたに浮かぶ。

「あぁ、旦那さんの実家の近くに家?それは絶対苦労するよ、だって色々目に見えてるじゃん……介護とか、子育てとかさぁ」……何が目に見えていると言うんだ、妄想の中の自分よ。自分の知らない世界について、占い師か詐欺師のようにあたかも有識者のごとく立ち振る舞う選手権でもあれば、私は中々にいい線いくんじゃないかと密かに思っている。

いつだって、ほんの少しでも気を緩めると、他人が自分より一歩も二歩も先に進んでいることへの不安と嫉妬、そして何より自分という存在に対する落胆が、夜行性の獣のように抜き足で忍び寄って、私の首を締める。

「一般的に20代が『何者になるかを決める』年齢であるなら、30代は『何者かになった自分を育てる』年齢なのだ」というフレーズは、占い師をする時に有効そうだけれど、周りの状況を見れば中々当たっているかもしれない。当たっている、というより「そうかも!」と思わせる力があるというべきか。

ちなみにその尺度で自らを測るとするなら、落第も落第だ。私は何者にもなれていない。就いた仕事に誇りは持てないばかりか、彼氏もいない。……人に自慢できるようなことは何1つない。できそこないである。

鏡に王妃が映っていれば平穏だったに違いない

またスマートフォンをいじくっていると、自己肯定感を爆上げするためのサイト「かがみよかがみ」というものが目にとまった。後ろに「この世で1番美しいのは誰?」と思わず続けたくなってしまうが、白雪姫の物語に関して、卑屈な私は少しばかり王妃贔屓である。何故なら、本来鏡は自分しか映さないはずなのに、魔法の鏡は残酷にも、突然他者の方が優れていると言い出すのだから。もし仮に鏡が王妃を映し続けていれば、世界は平穏だったに違いない。

つまり、コンプレックスとは他者と比較し、比較されるからこそ生まれるものなのだ。こうして、卑屈に夜中にスマートフォンをいじくって、他人に嫉妬し、自分に落胆し、「人生コンプレックス」を患う占い師志望の人間が言うのだから少しは説得力もあるだろう。

1人ファッションショーは自分のためだけに開催するから楽しい

私、こと占い師志望29歳はぐるぐる思考を巡らせる。私たちは日々鏡を見る。本来の鏡は「わたしひとり」だけを写す、クローズドな空間だ。であればこそ、自分は1番美しいんだと、思うことが出来る。女性なら誰でも一度は開催経験があるであろう、新しい服を買った時の1人ファッションショーだって、自分のためだけに開くから楽しいのである。

しかし、その場に他者が介在すると、世界は一変する。Facebookにあがった友人の結婚式、パーティードレスを着た友人たちが笑う写真の中の「私」。東京の雑踏、ファッションビルのガラスに揺れる群像に紛れる「私」。その瞬間、鏡の世界から追い出され、比較の世界に陥ってしまう。

他者のいる世界は残酷だ。新しい服を身に纏った自分より美しい人間が、街にはそこかしこにあふれている。私の転職活動も同じで、自分より優れた人材がそこかしこにいて、私は書類選考で、或いは面接で落とされる。けれど、他者と共存する世界に隷属し続けるのは、行き場がないからではなく、私自身も「あの子には負けても、あっちの子よりはマシかもしれない」と比較し、安心したいからだ。生きていくためには仕事は探さなければならないけれど、仕事の条件を選びたいという傲慢な願いも確かに私は持ち合わせている。

他者と自分を比較するな、と他人は言う。私には、到底そんなことはできやしない。何故って私自身も絶えず取捨選択をして生きているからだ。スーパーに入って、同じ値段なら傷んでいないトマトより綺麗でピカピカのトマトを手に取る。婚活アプリで条件のいい男性を選ぶ。この先だって私は、一生と言わず1日に何度も比較し、取捨選択し続けるだろう。そして、自らが比較し取捨選択し続ける限りは社会からも、誰かからも比較され取捨選択されることをある程度覚悟しなければならない。

自分しか映さない鏡を見つめるべきでは?

だが、占い師志望の女はここで1つ、自分のためのアドバイスを思いついた。「それは他者の評価であって本当の鏡に写る『私』ではありません。自分の評価は自分だけのものです」。

誰かに認められた経験で「自己肯定感を爆アゲ」出来るとは思えない。勿論他者からの励ましは力になる。けれど、まず自分が自分の価値を認めなければ、その言葉は耳からすり抜けていくだろう。自分自身に落胆し、諦めることだけはしてはいけないのかもしれない。

だから、我々は魔法の鏡ではなく、自分しか写さない鏡を見つめるべきなのだ。自分の姿は確かに変わらない。けれど、その姿を「どう見るか」だけは、自らの手に委ねられている。街のショーウィンドウに他者の姿が写るだろう、だけど、それがどうした。私は私で、もう今まで生きてきた人生は変えようがない。そしてその人生の価値を決めるのは転職エージェントでも、苗字の変わった友人でもない。私なのだ。これまで生きてきた自分の人生をいつか愛せるように、抱きしめてあげられるようになりたいと思う。「この世で1番……」なんて大それたことは言えないかもしれないけれど。

ペンネーム:すみれちゃん

アラサー。プロフィールに書けることも特になしっていう、プロフィールです。人生の履歴書を自由に描く為に転職活動中。

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