SNSが日々の生活に浸透している今、昔よりずっと「個人」を出すことが簡単になった。歌が上手い人は動画を投稿したり、ファッションが好きな人は毎日のコーデをUPしたり、それぞれの表現方法を確立させ、自分自身をアピールして生きることができるようになった。いわば、個性、というものがアカウントにより「見えるもの」として私たちの前に現れ、そして同時に私たちも自分の個性をアカウントを持ち披露できるようになった。

じゃあ、私は? 周りは個性のある人間だらけ。本当に困ってしまう

そうなると、元々自分自身が何も持っていないように思える人、SNS社会の中でいまいち輝けない人、どうやって個性を放っていいか分からない私のような宙ぶらりんの人間は、本当に困ってしまう。右を見ても左を見ても、周りは個性のある人間だらけ。みんな、何かを持っている。じゃあ、私は?となる。
次第にSNSとは「この人にはこれ」というコンテンツみたいなものがないと、そこにいる資格がないように思えてきてしまうのだ。

ああ、私も頑張らなきゃ。全力で焦る。すでにSNSの「個性力」に疲れている

それでもSNSを使うのをやめられない個性迷子の私は、周りの友人たちが日々ちゃんとパワーアップしていたり、時には影響力の桁違いな人をSNSでは身近に感じられるせいか、彼らが自分の活躍・支持する分野でエンパワメントしたりしている様子を見て全力で焦る。ああ、私も頑張らなきゃ。何かしなきゃ、何か声を出さなきゃ、意識を高めなきゃ。焦りは募っていくばかりで、一体何から行動すればいいのか分からない。そうなると考え方の幅がぎゅっと狭くなっていき、本来なら何をやっても自由なはずのアカウントで「どんなことをやっていけばいいだろう」という、自分本位<他人本位の考え方にシフトしていってしまう。それが「SNSによる焦り」の怖いところだと、個人的に思う。

自分のことをフォローしてくれている人は「私に関しての〝何〟を見たいと思ってくれているだろう」と考えてしまう。私の場合なら、趣味でやっている写真だろうか。けれど日常、映画の話、本の話……と、雑にSNSを使っているせいで、これ!といえるものが私のアカウントにはない。何で個性を出す?どれなら人を惹きつけられる?そんな風に思っている時点で、すでにSNSの「個性力」に疲れていることに気づく。

誰にでもある承認欲求。個性を見つけられていない人はどうすれば?

認められたい。誰かから「このジャンルならこの人のアカウントが良いよ」なんて、言われてみたい。一色に特化するアカウントにあこがれる。閲覧専用・情報収集などだけの理由で使いたい人もいるだろうけれど、SNSを使う同世代の中には、こんな承認欲求を持て余して苦しんでいる人もいるのではないだろうか。
承認欲求は恥ずかしいことじゃなく、誰しもが持ち合わせるものだ。例えば何万人もフォロワーがいるアカウントが「最近自分に自信がなくて……」とつぶやいたとする。すると「自分の個性を信頼してフォローしてくれている人」から言葉なりアクションなりでエネルギーをもらえることだろう。
承認欲求は誰もが持っているのに対し、自分の武器といえる個性をまだ見つけられていない人は他者からも個性を発見されていないので、自分自身の力によって自信をつけざるをえなくなり、相手からの言葉を頼りにモチベーションを維持することが難しい、といってもいい気がする。

個性、って何だろう。離れられないSNSがあるから、人は自分に迷う

周りが気になってしまうことや、応援されている人を羨ましいと思うこと、自分の個性をちゃんと分かっている人へのあこがれなどは、昔なら隠していた。最近はもう、隠さないでこんな風に書き出してみようと思えるようになった。なぜならこれは現代を象徴するものとしてきっと私だけではない、誰かも等しく感じている気持ちだし、1人で苦しんでいるより外に出したほうが楽だと思ったからだ。

もしかして、フォロワーの数が気になってる?そんな自分が嫌いだ。周りばかり気にしていたら、きっと自分の個性なんてずっと見つからないだろう。
愛されたい、という気持ちと、この気持ちは一体何が違うんだろう。承認欲求ぐらい、大人なんだからちゃんと向き合って自分で処理できるようになりたい。

考えれば考えるほど、自分の「人間じみたところ」が浮き彫りになっていく感じがして余計につらくなる。
個性、って何だろう。なぜこんなにも苦しいのに、SNSから離れられないのだろう。
こんな私の葛藤をそのまま、同じような思いで苦しんでいる人へ届けたいし、醜いかもしれないけれど、何も飾らないままに差し出したい。

SNSがあるから。
SNSがあるから、人は自分に迷う。

私の個性って、何ですか?