私にとってSNSは、いかに自分が劣っている人間かを思い知るための道具だった。

父親からの叱咤激励は、自分を卑下するだけの重石になっていた

自分を卑下するようになったのは、小学校中学年ごろだろうか。要領のいい兄がいるためか、よく比較された。父からよく言われたのは、「お前はお兄ちゃんと違うんだから、人の10倍努力しなきゃだめだ。」という言葉。

兄と比較して、私のやる気を起こしたかったのだろう。でも残念ながら、私は負けず嫌いではなかったため、父の言葉では扇動されなかった。
その代わりに、ただただ「自分は劣っているんだ」という気持ちだけが積み重なり、私を侵食していった。

絵も描けないし、二重でもない。SNSの世界で、もっと自信をなくした

高校入学と同時にSNSを始めた。

SNSの世界では、好きなバンドやラジオが同じ人がわんさかいて、なんだか友だちがたくさん増えたような気がして嬉しかった。

でも、だんだんとお得意の自己卑下が顔を出していく。
タイムラインではクオリティーの高いファンアートや、豊富な語彙力で共感を誘う感想が流れる。それらを見るたび、自分には描けない絵や、自分では思いつかない表現で好きなものの魅力を発信している人をみると、どうしてもファンの優劣を感じ自分は発信ができない底辺のファンだと責めてしまう。

さらに、SNS上で蔓延する「二重至上主義」や「痩せ至上主義」の価値観が、それに当てはまっていない自分を侮辱する。
人より大きなお尻や太もも、低い背、腫れぼったい瞼、あらゆる体のパーツを他人と比べ自分が吐くほど嫌いになった。
SNSを見るたびに、自分の体に鋭いナイフで「劣っている人間だ」と刻み込んでいる、そんな感覚に陥っていた。

「私、かわいい?」って思える日が来るなんて。挑戦も、SNSだった

自傷行為のような自己卑下から私を救ってくれたのは、なんとSNSがきっかけだった。
大学の友だちが、興味関心のあるジェンダー問題や政治問題についてSNSで投稿するようになったのだ。
最初は「こんな問題があるんだ。」くらいに感じていたが、だんだんと“発信する”っていいなと思う自分がいた。

これまでは、自分なんかが何かを発信するなんて考えたこともなかった。
だって、人よりも劣っているからきっと批判される。でも、今回は違う。
シンプルに「挑戦したい」と思った。身近な人がやっているという事実が、勇気になった。
多分私は、才能やスキルに関係なく、周りの目を気にせず自分の軸に沿って発信できる人間にずっとなりたかったのかもしれない。
彼女のSNS投稿が、自己卑下の陰で埋もれていた理想の姿を教えてくれた。

それから、恐れながらも自分の思っていることをぽつぽつと投稿するようになった。
自分の意見を発信することは、突き抜けた才能を持った特別な人しかできないと思い込んでたけど、実際やってみるとそんなハードルって幻想じゃんか。

ほのかな自信から、重くのしかかっていた自己卑下の呪いが少しずつはがれていく。
いままで大嫌いだった大きなお尻や太ももは、「なんだかセクシーじゃない」と思えたり、腫れぼったい一重も「二重じゃなくても普通に私かわいくね?」だなんて思えることが増えた。メイクをしていて、自分可愛いかもと思える頻度も増えた。やっと自分を好きになりつつある。今も悪い癖で瞬間的に自分を卑下してしまうけど。

変わるのはそう簡単じゃない。でも、自分が好きな自分を探したい

たぶんこの文章を何年か前の私が見たら、この著者はこんなこと書いてるけどきっと私よりかわいいし友だちも多いし愛されてるだろうなぁ、と自分を卑下していた。
でも、そんなことないし、そんな自己卑下は必要ない。
そう思える私は、確実に強くなったと自負できる。

無意識な自己卑下は一生治らない癖だし、きっとこれからも付き合っていくだろう。
でも、今みたいに自分が好きな自分を探して極めて発信していきたい。何年後かには、自分が大好きと胸張って言えるように。