不幸だ、というと、もっと不幸な人がいるという。
確かに、私の不幸なんて、微々たるものかもしれない。今日のご飯に困ることはないし。五体満足の身体をしているし。
それでも、と。それでも、どうしても辛くなってしまう時がある。
偽善だと言われればそれまで。でも、世の中の不公平にやるせなくなる
昔から、外的要因で人がどうしようもない状態になるのを見るのが、とても辛かった。
平和学習で戦争の映像を見たときには、戦争がなければ、この人たちはこんなに辛い経験をしなくてよかったのかと泣いたし、海外旅行に行って、子どもが花を売っているのを見れば、一生選択肢もなくその方法で生計を立てていかなければならないかもしれない、ということに心が傷んだ。金銭的な理由で、塾に通えなかったり、進学先の選択肢が狭まる人を見ると、やるせなくなった。
偽善とか、憐憫とか哀れみの目を向けて、優越感に浸っているだけでしょ、と言われても、そう思ってしまうことはどうしようもなかった。
というよりも、私からしたら、正々堂々戦えないのが嫌だった。
私はとても負けず嫌いなのだ。負けず嫌いだからこそ、ハンデのある勝負で勝ったって何も嬉しくないから、全員のスタートラインが一緒じゃないのも嫌いだ。だから、世の中の不公平そのものを忌み嫌っていた。
困っている人がいても、なにもできない私。自分の無力さに苦しんだ
ここ直近、コロナウイルスの影響でお店が潰れてしまった人、職を失ってしまった人、大切な人を喪ってしまった人。いろんな人を目にするたび、何もできない自分に腹が立った。
何から始めたらいい、誰のことを一番に思って動けばいい。貯金もスキルもそんなにない私に何ができる?
そうして調べていくと、たくさん辛いニュースが出て来た。じゃあ、その中で一番優先度の高そうな人のためになにかしよう。じゃあ、その優先度が高い人はどうやって調べたらいい?職を失った人?明日のご飯が食べれない人?でも日本では、死ぬことはそれほど身近にはないよね。世界には、今日のご飯も食べられない人がいるよね?
こんなに世の中には困っている人がいるのに。何もしていない私。今すぐに青年海外協力隊とか、ボランティアにいくほどの勇気もない。全財産を、寄付することもしない。結局は綺麗事だ。そう考えていくと、苦しくなって、でも私はこんなに恵まれているので、苦しむのすらおこがましいのかなと思い、また苦しくなる。自分の無力さを呪った。
そうしているうちに、自分の会社にも影響が出てきた。今は自分の会社にできることしか考えられなくなった。でも、ふとした瞬間に、今この瞬間も生死をさまよっている人たちのことを考えて苦しくなる。
いま、私にできることは何?少しずつ輪を広げれば、明日はよくなる
そうして、苦しい日々を過ごしているうちに、ツイッターで誰かがこう呟いているのを見つけた。
「まずは、共感の輪を小さくしましょう。今自分にコントロールできることに集中して、コントロールできないことに思考を巡らせるのはストップしましょう。余裕が出て来たら、その輪を大きくしていきましょう。」
そのとき、確かに救われた。そこから、まずは自分自身のメンタルを安定させることにした。とにかく紙に書き出した。海外の子どもを救えないやるせなさも、今の会社にずっといていいのか不安なことも、恋人が欲しいことも、コロナウイルスの影響で職を失った人に何もできない悔しさも、全部。
そうして、できることからやっていくことにした。まずは、共感したクラウドファンディングへ支援し、コロナウイルスの影響で在庫処分しているところから自分に必要な物を買った。
できないことを嘆くより、少しずつできることをしていって、スキルや関わる人を広げて、もっとたくさんのことができるようにしていければいい。そうして輪を広げていけばいい。
自分が辛い時は、まずは輪を狭めて、自分をケアしてあげればいい。
できることを、少しずつ。ちょっとだけ、明日を今日よりよくしよう。