私はあの丸アイコンが憎い。
時は大SNS航海時代。
ライターも顔と名前を出し、自分の書いたものを発信するようになった。
ライターだけじゃない、広報や一社員が所属とともに、色々な情報を誰もが発信するようになった。
いつからこんな風になってしまったのだろう。
文章を書くことはブスで陰キャの心の拠り所ではなかったのだろうか。
顔で値踏みされず、文章の実力とペンネーム(匿名)でのし上がれる世界ではなかったのだろうか。
SNSで「バズる」文章の書き手はだいたい顔を出しており、さらに見てみると、固定のファンも多い。
なにより……顔が良いのである。
もちろん小さな丸アイコンだけでは判断できないこともあるが、大概みんな美女イケメン風で、良い感じのエモおしゃれ感が滲み出ている。
匿名で、陰キャも許される時代はどこに行ってしまったのだろう
たとえば2010年初頭のTwitterは謎のキャラクターを模した人による絶妙な恋愛コラムが流行っていた気がする。
もしかしたら、書いていたのはおっさんかもしれない。
でも私たちは心から楽しんでいた。
もしもああいった文章が今流行ったらどうなっているだろう?
「顔が見たい」と言われる→出す→文章の雰囲気と顔にギャップがあると叩かれる。
特にイイ女/デキる男風のつぶやきだった場合、その非難は大きいだろう
私も以前、「できる社会人のハウツー」の記事を書いていたこともあった。
もしあの文末に丸アイコンと自分の写真・ライター名が載っていたなら……
ぼやっとした芋臭い女のアカウントで「書きました!」と書いていたら……
読み手からしたら「なんだ、ブスじゃん。こんなブスに偉そうに」と一気に説得力が失せるのだろう。
実際、科学的にも「美男美女のほうが説得力が増す」といった証明はなされている。
あぁ、匿名で、陰キャも陽キャも許される、楽しきインターネッツライティング時代はどこに行ってしまったのだろう。
若さと美しさが重視され、仕事ぶりが勝手に評価されていく
ここで仮にだ。
「売れっ子美人ライターとして活躍していたら……」と妄想してみよう。
その苦悩は少し想像つく。
「私が評価されているのは文章力ではなく、見た目が評価されているのかしら」
そう、悩むのではないだろうか。
近しい職種だと作家もそうだ。
芥川賞・直木賞を若くて整った女性が受賞すると「美人作家」と持ち上げられる。
この現象はもしかしたら、どの仕事でも同じかもしれない。
営業であれ、接客であれ、ちょっとしたコミュニケーションが生まれる事務であれ……。
若さと美しさが重視されるこの社会では、個人の努力とは関係のないところで仕事ぶりが勝手に評価されていく。
「私はこの容姿が仕事で加点になることはないから、ある意味自分の文章力のみが本当に評価されているよな」なんて僻みの混じった自己への慰めをしつつ、映えない顔の私は今日も署名のない記事を書く。
ライターにも外見至上主義が進出しつつあるのがツライ
個人の時代だ、と言われている。
誰もが発信できる時代だ、と言われている。
いわゆる「署名記事」なるものはやはりライターにとっては名前を出さない記事よりも、「格が上」という認識はあると思う。
個人の名前で、仕事をとりに行かなければならない人は多い。
外見も含めた自己ブランディング
モテクリエイター
人は見た目が9割……
もうたくさんだ!
懐古厨と言われても良い。
「人に文句を言う暇があったら自分を磨け」なんて声も聞こえてきそうである。(被害妄想)
ライターにも外見至上主義が進出しつつあるのが、私は本当にツライ。
けれど。本当は気づいていた。
外見至上主義は今に始まったことでない。
すでにずっと刷り込まれていたんだ。
小学校でもマドンナが作文を読むと教室はちょっと色めきだったし、顔の整った子が生徒会に立候補した方が票が集まっていた。
教室から形づくられたあのカーストは今もずっと私たちの中に巣くっている。
SNSがあるから。
組織の時代から個人の時代になったから。
教室や職場の世界をはみ出して、それらがちょっと可視化されるようになっただけなのだ。
今さら竹馬の友であるルッキズムをなかなか手放せない。
私だって、新垣結衣みたいな顔に生まれて、顔出しライターになりたかった。
私もまた、外見至上主義者なのである。
売れたい。