子供の頃からスポーツが苦手だった。特に嫌だった「三大行事」はスポーツテストのシャトルラン、真冬に行われるマラソン大会、運動会の100メートル走。そうです、足が遅かったんです。何度練習しても、「速く走れる裏技」なるものを試しても、50メートル走で10秒を切ったことがない。とにかく運動オンチだった。
とにかく運動音痴。中遊びを好み、家の中で本の虫になった
勉強も得意ではなかったが努力すればなんとかなった、しかしスポーツだけは私に味方してくれない。「生まれ持ってのもの」という現実が幼い私を日々苦しめた。特に小学校という空間は、スポーツが得意な子供に優位であるように思えた。友達同士で「花いちもんめ」という遊びをしたら、足の速い子たちが一番に選ばれ、抜けていく。いつも余ってしまう、選ばれない私にもはや人権などない。なぜ?どうして?「運動神経」という遺伝を呪った。
そんな私が「外遊び」より「中遊び」を好んだのは、ごくごく自然なこと。外で鬼ごっこをしてもすぐに捕まってしまうのだから、家の中で絵を描くことや本を読むことが好きになった。そのせいか国語だけは昔から得意で、読んだ本が偶然テストに出てくる、という現象になんとも言えない快感を覚えてからは、ますます本の虫になった。中学生になると休憩時間や放課後は友達とのおしゃべりに勤しむ。読書している子は「なんか暗い」にカテゴライズされるから、本は家の中で読むものになった。江國香織、恩田陸、森絵都。今も私の体にざくざくと刻み込まれている、あの時読んだ言葉たち。
「文章がうまい」ことはなんの役にも立たない。小説家になるでもなく、論文を書くでもなく、会社員になった私はずっとそう思っていた。ただ「読書をする習慣」は、大人になってから大いに役立った。読書好きというのは一定数居るもので、歳を重ねるごとに本の貸し借りやオススメの言い合いっこが盛んになった。ある日、伊坂幸太郎を借りたお礼に貸す本を選別するため、本棚の前に立った。「人から借りる」ことで普段は選ばない本を読み漁っていたこの頃、自分の本棚のラインナップにぎょっとした。ものすごく偏っていたからだ。幼い頃にコンプレックスを持ち、「なんだかもやもやする」というフラストレーションを読書で解消してきた私の本棚は「なんだかもやもやした女が日常を過ごす」系の話で埋め尽くされていた。「見る人が見れば分かる」ラインナップに、私は急に恥ずかしくなった。読書家の人が見ればすぐに分かる。「ああ、こういうのが好きなのね」という具合に。私はもはや裸を見られるよりも本棚を見られる方が恥ずかしい、と思った。それらは私の本質を顕著に表していたからだ。
小学生の頃は、光輝く栄光、そんな目に見えるキラキラが欲しかった
小学生の頃、担任の先生が生徒一人ひとりに「賞」をくれた。「算数得意で賞」「足が速いで賞」といった、その子の得意を賞にしたもの。くす玉を模した黄色い画用紙に、一枚一枚手書きされたそれらは、終業式で一斉に配られた。なにが書かれているんだろう?「自分だけの賞」は、私たちをワクワクさせた。配布された後はみんなで見せ合いっこを楽しむ。私の親友はスポーツが得意で、「縄跳び上手で賞」。一方、私は「優しさNO.1で賞」だった。えっ!と思った。私は人に優しくした記憶などない。先生はきっと書くことがなかったんだ。なんとなくそう理解したし、今も心のどこかでそう思っている。家に帰って母親にそれを見せると、母は大層喜んだ。「縄跳びの方がいいもん」と私が言うと、母は「優しい方がいいじゃない」と即反論した。大人になった今なら母に同意できるのだけど、子供の頃はとにかく「目に見えるもの」が欲しかった。50メートル走を7秒で走り抜け、運動会ではリレーの選手名簿に名前が載り、縄跳びの二重跳びや複雑な技が連続100回出来る。光輝く栄光、そんなキラキラが欲しかった。
「なんの役にも立たない」と思ってきた言葉遊びが今、楽しくて
会社員になって得意な国語は役に立たなかったが、時々上司に呼び出されるようになった。会社の偉い人はなぜか理系が多く、文章にはてんで弱かった。「この文章、ちょっと直して」とお願いポーズで言われては、私はデータごと引ったくり、文字を打ち直した。時には「これは~というニュアンスでいいですか?」と訊きながら日本語から日本語へ翻訳する係になった。他の人が「50メートルを7秒台で走れる」ことと、私にとって「文章をキレイに書き直す」ことはほとんど同じだった。そして大人になって求められるのは後者のような気もした。子供の頃あんなに欲しかったものよりも、知らず知らずのうちに自分が手にしていたもの、それが私だけの「キラキラ」になった。
大人になると「目に見えないもの」を求められる場面が多い。人と話す力、空気を読む力、気を配る力。学歴も、得た資格も、まして50メートル走のタイムも、入社してからは飾りになった。そして私は今、こうして文章を書いている。「こんなの、なんの役にも立たない」。ずっとそう思ってきた言葉遊びを、大人になった今、全力で楽しんでいる。