私は自分に自信がない。

自慢ではないが、割と昔から褒められていた気がする。特段すごいことをやってのけた、というわけではないけれど行動に対しての正当な評価を常に受け取れていたんだと思う。

このエッセイを書くときに一番最初に思い浮かんだ自身の経験を紹介したい。

子供の頃、起床時間になり自分で布団から出てきた私は、寝室からリビングに向かう階段の途中で寝ぼけながら一段一段、休みながら段差を下りていた。下りた先では母が待っていて階段の真ん中でうとうとしながら座っている私を見て、母は「今日も可愛いの?」と、にこやかに尋ねてきた。それがとてつもなく嬉しくて、その頃持ち合わせていた最大限の喜びを体現しようと一生懸命、精一杯大きく頷いた。
言われたことを謙遜する様子もなく無邪気だったんだな、と今思い返すと温かい気持ちになる。

いつからだろう。他人からの評価を素直に受け取れなくなったのは

きっかけは学生時代、周りの雰囲気に馴染めず自分に関わってくれる同級生や先生などの対応も何だか素っ気なく感じていて「他人を信じても無駄で意味のないこと」と飛躍した考えを持ち、そう決めつけていた。それが徐々に蓄積された結果、あんなに純粋で素直に与えられたものを受け取ることが出来ていたのに、今は全てを疑い、昔の可愛らしさとは程遠い生活を送っている。過去に褒められたり認められたりすることは何度もあったし、現在もその時と変わらない環境に身を置けていると思う。昔の私だったらニコニコと笑みを浮かべて感謝を伝えられたはずなのに、今はそれが出来ない。嬉しい言葉を投げかけられても、否定から入り最後は自分を軽蔑して終わる。

相手からの評価を素直に受け取ること。
昔であれば誰に教わるでもなく、いとも簡単にやってきたことなのに、あまり平穏ではない人生をダラダラと生きてきた結果、本音と建前だけにこだわるようになっていた。何かと理由をつけて「誰も信じるものか」と敵意をむき出しにし、受け入れることを恐れた。真に受けて陰で笑われるのを想像した。

「自分を信じたい」。
そんな率直な気持ちを抱くものの、紛れもない本心を自分で裏切ってしまった。

自分を卑下してしまえば楽になる。歪んだ自己防衛に嫌気が差した

そんなこんなで、私は自分をクズ呼ばわりするようになった。人に思われたり、言われる前に自虐をすることで全てが腑に落ちて納得できるし、何よりとても楽になるからだ。私は他人だけではなく、自分のことも信じられなくなっていた。自身を卑下してそれを一人で勝手に認め、言ってしまえば”逃げて”いたのかもしれない。

本当は純度100%の澄み切った心で生きていきたい。でも、嘘のない真っすぐで綺麗な感情だけでは、生きてこれなかったんだと思う。心ない言葉や嘲笑があっても何とかクリーンな感情で解決しようと善処はしたつもりだったけど無理だった。正義なんてのは心に余裕のある人にしか使えない言葉なんだと実感した。卑劣なやり方をする人にはそれ相応、もしくはそれ以上の気持ちで立ち向かわなければ心が腐敗してしまう。壊れて廃棄にならないように、自己防衛のため本来持ち合わせているであろう「自分」を捨てざるを得なかった。

しかし、これが現実であり「成長」するということなんだ、この感情はごく当たり前のことであって仕方がないことだから抗っても無駄。そんな考えが体中を駆け巡り、あっという間に細部まで負のオーラに蝕まれてしまい、いつの間にか見るにも耐えない醜い姿と化していた。
鏡を見ると容姿はあの頃とあまり変わらないようにも思えるが時々、本当の自分が見えない気がする。母の問いに答えていた女の子の欠片なんてもうどこにもいなくて正直、悲しくなる。

あの頃の純真無垢な私ではないけれど、今の私も信じてあげたい

基本的に私は愚かな人間なんだと思う。
なので、遥か昔の清らかな感情を捨てて、いっそのこと汚いものとして生きていこうとしている。

今はそれでいいのだと思う。

でも、幼少期の私は確かに存在していた。成長して、大人になった今もこの世にいるのは全て私である。私には楽しくて嬉しくて、屈託なく笑っていた時代があった。前の記憶は濁ってしまって見えていないのが現状だけど、そのことを少なからず自分だけは忘れないでいてあげたい。あの頃とは大きく異なる自分を受け入れることはとても勇気のいることで、小汚い生き方に慣れてしまったが故、過去の感情を遡って、元のレールに戻す作業は正直、難航しそうだ。
だけど、かつては健全であって心の片隅にその気持ちは変わらず残っていると思うから、まずはそこを「信じる」ところから始めたい。
自信は徐々に培っていくことにして、今はとりあえずそんな私を「私」が受け入れる。

これまでと同じように”逃げて”しまったら、今後、生きていく上で本当に自分を蔑んでしまう材料になるから。