私は、人間関係を自ら破壊してしまう悪癖がある。所謂、クラッシャーというやつなのだろう、ということについ最近気がついた。人生において何度も何度も転んで、泥だらけになって、それでも人を信じたくて必死に歩いてきて、そしてまた転ぶ。それを繰り返していたと思っていたのが実は自分の理想に合わないものを切り捨ててきただけだった。そうして私の人間関係は消失していく。こんな馬鹿げた私による最近の崩壊の話をしようと思う。

友人との大きな喧嘩。私の「日常」を創り直さざるを得なかった。

去年の秋に、大きな喧嘩をした。喧嘩というか、私が堪え性がなかっただけというか、私と彼女が絶望的に合わなかったというか。彼女と私は同じ大学の友達だった。そして、私たちは仲良くなればなるほど、似ていることが明らかになっていった。細かい部分が気になってしまうような他人からしたら少々めんどくさいところとか、物事を真面目にとらえすぎる所とか。人に勝手に期待して勝手に裏切られた!と大騒ぎするような、そんな、ある意味で人間くさいところがそっくりだった。そんな私たちはあるタイミングですれ違ってしまい、それが積み重なってダメになってしまった。私が一緒にいるときに無理をしていることに気がついて、もう一緒にいたくない!などと爆発してしまったのである。こんなことになるくらいなら、最初から仲良くしなければよかった。だなんて後の祭りで。お互いに深く深く日常にまで影を落としていたのにそれが壊れてしまったわけなのだから、私の「日常」というものも創り直さざるを得なかった。

共通の友人に仲介に入ってもらい、互いに歩み寄ろうとしていた。

一応傷ついたのだと主張している手前、この壊れてしまった関係を無理やりに直して、また仲良しに戻る、ということは望んでいないのだけれど、ただあの日の私たちが居たような元の「日常」を送ることはしたい。そう考えて、去年の冬から本当につい最近まで共通の友人に仲介に入ってもらうことまでして、お互いに歩み寄ろう、そう考えていた。本当だったらこの春、2人で会ってもうお互いに後から無理やり創った「日常」に互いを押しこめるのはやめよう、お互いの生きたい道を歩もう。そう、話し合っていたはずだった。

拗れてしまった関係は拗れたまま、夏を迎えようとしている。

ところがこのタイミングでこの病の流行である。彼女と私は会えないままで、共通の友人とも連絡は取れないまま。この拗れてしまった関係は拗れたまま、夏を迎えようとしている。もう二度と会うまい、顔も見たくない、傷つけられたあの人になんて私のことを悪く言う権利なんてない、私は悪くない、そうやって自分を正当化してきた秋からいつの間にか冬を経て、春になって、もうそれが終わろうとしていて。氷が春の光を受けて溶けていくように、風の寒さが日差しの暖かさに変わるように、お互い牽制し合わないで、好きな道を歩もう、そうしよう。そう考えられるようになって、私はこの春それを伝えてすっきりと時間が流れたことを迎え入れられたはずなのに、何も動けないまま春が終わっていくことに対する一抹の不安と自分のことを忘れてもらえるチャンスなのだから、このままでいいじゃないか!と叫ぶ自分が心の中で仲良く新生活を始めたのはいつ頃からだったか。あの時から私の時間は止まったままで、ネジを巻いて動き出すタイミングでまたも止められてしまった。

ねえ、次に会う時は、お互いもう少し、大人になって逢えたらいいね。そうなれるように、今のうちに私はできることをしておくよ。もう苦しめ合わないように、互いを互いから解き放つように。