コロナ禍真っ只中のご時世だが、私の生活にはほとんど変化がない。
もともと通信制の大学に籍を置きつつ、在宅ワークで小遣いを稼いでいるためだ。
主な生活資金は国から支給される障害年金と、毎月父親から手渡しされる数万円。

私が障害年金を受給するようになったのは、もとを辿れば家族からの身体的・精神的・性的虐待、ネグレクト等に大きな要因がある。
毎日毎日「茶を持って来い」「ラーメンを作れ」と家政婦扱いをされて、一瞬でも嫌な顔をすれば殴られたり、骨折を放置されて変形治癒を起こしてしまっていたり、高校受験の直前期に夜の二時でも朝の五時でも怒鳴り合いが始まったり、激しい夫婦喧嘩のために早朝から警察がやって来たり、大体そのような家庭環境だった。

この記事の読者の中に、受験勉強をしている最中、親から「そんなことより家事をやれ」と怒鳴られたことのある人はどれくらいいるだろうか?
合格した高校で頑張って勉強し、全国模試で学年二位の成績を取っても、「どうせ一位は男なんだろ?」と父親は言った。決して私を褒めることはなかった。

自分が何者なのかを指し示す分かりやすい職業名が欲しかった

学校の勉強というものは、その頃の私がほとんど唯一「そこそこできること」で、私はほとんどアイデンティティーを確立するために勉強していたようなものだった。
両親からの愛情も関心も貰えなかった私には、自分の適性を見極め、できる限り早くその道に進むことが最重要事だった。
できれば何かの専門家になりたかった。自分が何者なのかを指し示す分かりやすい職業名が欲しかったのだ。保育士とか、検察事務官とか、美容師とか、エンジニアとか、めちゃくちゃ格好いい。名前のつく職業は、それ自体が自分を補強してくれる。
自分の「興味のあるものにはとことん熱中し続け、不得意分野はどんなに努力しても人並み以下」という性質からも、ゼネラリストよりスペシャリスト的な職業が向いているだろうと考えた。

専門知識を要する職業に就く。そして職場で尊敬できる上司や先輩を見つけ、親代わりとして慕い敬い、自分を育て直す。
それが私の理想の人生設計だった。
どんな職業でも選べる立場になりたかった。
けれど悲しいかな私は文系でかつ極度のコミュ障で、研究者になれるだけの頭も金銭的余裕もない。この時点でかなり職業的選択肢は絞られていた。

私はいい成績を挙げ続けていたので、先生たちからは旧帝大進学を期待されるようになった。
けれど私はバーンアウトした。長年受け続けた虐待の後遺症として。自分の心身の悲鳴を圧殺し続けた結末として。

孤立無援のまま妥協した大学受験

私は高校を中退し、大学病院の精神科医に「入院しませんか」と言われる程のうつ病を抱えて、万年床に一日中寝転がっていた。その間も家族の怒鳴り合いは止まなかった。男きょうだいが家事を免除される代わりに、重度のうつ病を抱えた私が息を切らしながら洗濯物を干していた。

一般受験で合格した大学は、当然だが私にとっては「重度のうつ病を抱えた状態でも入れる大学」である。有名予備校では「難関私立大学」に括られていたけれど、合格ラインをはるかに上回ったことを示す合格通知なんて、私の実力の証明でも何でもなかった。
理想を掲げようと戦略を練ろうと、他人に人生を邪魔され続け、精一杯努力しても足を引っ張られて、孤立無援のまま妥協した大学受験だった。
利子付き奨学金の申し込みも一人で済ませた。

大学を中退し、通信制大学へ三年次編入をした

大学進学後しばらくは何とか単位を取っていたけれど、実家から遠方へ引っ越したことで大学病院の主治医とは切れていた。うつ病が治っていたわけではない。個人クリニックに通院し、一日一時間しか眠れない惨状を訴えたが、睡眠薬は一切処方されなかった。おかげさまで私の病状は悪化した。大学生らしく遊ぶ余裕などなかった。

そして大学三年の後期、私の心では過去の虐待の具体的な記憶がフラッシュバックし、また私は床に就いた。四年生になってもほとんど就活はできず、卒論は書けそうになかった。
「努力が踏みにじられることには慣れている」「またトランプのタワーが風に吹かれて崩れただけ」としか思えなくて、まともに悔しがるだけの元気もない。

そして私は一字も卒論を書けないままに大学を中退し、通信制大学へ三年次編入をした。ここを卒業しないと私の学歴は中卒になってしまう。
ひどい虐待をしてきたとはいえ、私立大学の学費は出してくれた親だ。通信制大学の学費も、借金という形ではあるがとりあえず立て替えてくれた。その点については感謝している。ここで無駄にしたくないのだ。

私は私にリベンジします

私はコロナ禍の前から週に一、二度しか外出することができていない。家でスクワットやプランクをしてみたり、できそうなことはとりあえずやっているのだが、どうにもうつ抜けができない。
陰惨な環境の中で必死に思い描いていた夢が無残に崩れ去り、経済的に自立できていないからだろうか。努力が報われない体験を積み重ねてきて、学習性無気力に陥っているからだろうか。それなら私はリベンジしよう、と思った。

四歳の私を家政婦扱いしていた家族へ。
十歳の私の頬を殴って「他人を信用するな」と言った家族へ。
私は私にリベンジします。あなた方に植えつけられた陰惨な人生観を払拭し、大学を卒業し、在宅ワークの量を増やし、何とか自活できるだけの生計を立てていきます。
私の人生はメリーバッドエンドになるでしょう。過去の自分から見ても、社会に生きる他人から見ても、私の現状と行く末は悲惨なものです。きっとまた私の努力のタワーは崩れ去るのでしょう。心と体に染みついた陰惨な記憶に、そこから生じる様々な症状に、人生の邪魔をされながら。それを繰り返して私は続きます。
だからこそ私は、私だけが味わえる幸福を抱きしめて、これからの人生を生きていきます。
自活の方法を手に入れたときには、きっと永遠にさようなら。いつまでもごきげんよう。