学生のとき、3か月という短期間だったが、海外に留学した。
現地への到着時刻が夜遅かったため、初日は空港近くのホテルに滞在した。

チェックアウトのとき、学校のある最寄り駅への行き方を英語でホテルマンに聞いた。

そのとき何を言われているか全く理解できず、私は思った。「これはまずい」と。
私は見くびっていた。現実は甘くなかった。高いコミュニケーション能力がない自分が、英語ができずになんとかなるはずないのだと悟るのは遅かった。

英語の上手い友人への嫉妬と羨望で苦しんだ

学校には日本人の友人も数名いて、皆それぞれ、志をもっていた。そりゃそうである。学校は政治や社会問題について学ぶ場所として有名なところだった。

そして、皆英語がうまかった。私は焦った。

友人のひとりは笑顔がとても明るく、英語も流暢で、人とすぐに打ち解けていた。

日本文化や料理を紹介するワークショップを何度も開催するほど、社交的だった。
私には絶対にできないことを彼女はやっている、と思った。

彼女の活躍を尻目に、私は現地の友人に「何言ってるのかわからない」「私が言ってること理解してるの?」と言われるばかり。そのたびにいちいち凹んだ。

そして、彼女と関わることがしだいにしんどくなっていった。彼女に何かをされたわけでもないし、「嫌い」という感情でもない。

ただただ、彼女が輝いて見える。自分がくすんで見える。嫉妬と羨望がどんどん大きくなり、とうとう同じ場所にいることに耐えられなくなった。私は帰国まで彼女を避けた。

「決して自分を卑下しない」友人の言葉に衝撃を受けた

悩みを抱えたまま、インドネシアの友人と話していたときのこと。

「わかってるふりやあいまいな返事はしないで、分からないことは分からないと言ってほしい」と友人が言ったのをきっかけに、英語の話になった。
「できる人と自分を比べてしまって苦しい」と打ち明けた。彼は言った。

「僕も人と比べるけど、それは別の友人たちの音や言葉を参考にして、”こうできるように近づけよう”とか、”こうしたらもっとよく言えるかな”って考えて比べてるかな。決して自分を卑下しない。僕だって英語は母語ではないから、ネイティブと話すときには緊張するよ」

その言葉は私にとって衝撃だった。
「人と自分をそんな風に、どちらかを卑下したりせずに、比べることができるんだ」と思った。彼は自分自身も他者も尊重していると感じた。
彼の言葉は今も忘れることができない。

帰国してから、1人で英語と向き合った

帰国してから、英語をやらないという選択肢もあったけど、英語をやめることができなかった。一度広がった世界を閉じることは無理だから。

人と競争しようとすると疲れるので、英語を楽しむことだけを考えることにした。
ちょうど1人暮らしということも幸いし、人と比べる環境も減った。ひとりでも心細くなかった。

気付いたら、私は人と自分の英語を比べることをしなくなった。
社交的な友人に対して、3か月間抱き続けていた苦しい感情は、すっかり姿を消していた。

SNSなどで英語ができる人を見ても、アドバイスをくれた友人のように、今では「すごいところを盗もう」という考えに変化した。

思えば、私は留学中、「日本人」の友人としか自分を比べていなかった。同質性が高い社会だからこそ、ひとりひとりの違いが見えにくいのかもしれない。
当たり前だけど、学ぶペースも、強みも、全員違うのだ。

わたしは自分を前よりも好きになれた

自分が過去よりも成長できたら、もっと自分を好きになれるかもしれない、という希望をもった。
それで、過去の自分より今の自分が1㎜でも進んでいたら、とってもすごいことだ、と、自分を褒めるようにした。
はじめは勉強を継続しても意味がないとか、そんなことしてもバカげていると思った。でも、次第に、楽しくなっていった。

もちろん、理想と現実の差に焦ることは今でもたくさんある。言いたい事が言えないときや、単語を忘れるたび凹む。

でも、英語を通して、わたしは自分を前よりも好きになれた。私はこれからも英語を続けていくだろう。