「今も昔も明るくて素敵で頑張り屋さんなゆっこを尊敬しています」「いつでも真っ直ぐなゆっこならきっと何でもどこでも乗り越えていけると思うから、あんまり無理せずにね」。お誕生日おめでとうLINEと共に送られてきたメッセージを見て、私はそっとスマホから目を背けた。

誕生日に必ずLINEをくれるのは、学生時代の地元の友人たち。私も友人も地元を離れているが、誕生日には必ず連絡を取り合っている。地元の友人とは不思議なもので、1年に1回の連絡でさえ、まるで昨日会ったかのように他愛のない話をすることができる。

地元の友人たちからみた私のイメージは相変わらず「頑張り屋で、尊敬できる存在」のままのようだ。しかし、今の私はただ成り行き任せに日々を過ごしていて、とてもじゃないけど誇れるものが何もない。今の自分を地元の友人に知られてしまったら、きっとガッカリするだろう。そして何より自分自身が、会社員の私の今に失望している。

「もう、こんなに頑張るのを辞めたい」と、年功序列の企業に就職

学生時代の私は、学力こそ良くはなかったが、自分の目標に向かってがむしゃらに努力ができる人間だったと思う。中学高校は部活動に全力を尽くし、大学では4年後の就職を見据えて勉学に励んだ。就職活動の際「もうこんなに頑張るのを辞めたい」と考え、年功序列の比較的大きい企業に就職した。

就職先は、ありがたいことに安定しているし、勤務地は変わるが仕事内容は大きく変わらない。若い頃は苦労するが、経験を積めば効率的に仕事をすることができるし、給料は上がるし、頑張ることを辞めても何も困らない。

しかし頑張ることを辞めて早4年、自分は何のために生きているのかと考えることがある。朝早く起きて仕事をし、夜は遅くまで残業し、家には寝に帰るだけ。自己スキルの向上を目指したいが、そんなことしなくても黙ってコツコツ働けば、多分上の役職に上り詰めることはできるだろう。無駄な努力はしない方がマシと思いながらも、おそらく人生グラフを描いたら横一直線のなんの面白みもない形になるに違いない。

留学の目的を達成した、尊敬し憧れてやまない友人がいる

人生に迷ったとき、必ず思い出したい同い年の友人がいる。本人には一度も言ったことがないが、私が尊敬し憧れてやまない人物だ。
私がその友人と出会ったのは、高校2年生の終わりのこと。地元も異なり、タイプも違う私とその友人は、「同じ県内で同じ部活動に励んでいた」という共通点があり、部活の県大会の宿舎で、同部屋になったことをきっかけに仲良くなった。華奢な体型とクリッっとした目元が特徴で、おそらく私の友人の中で1番ルックスの良い子だと思う。しかし私は、彼女のことを1度も可愛いだなんて思ったことがない。彼女に似合う言葉は可愛いではなく「かっこいい」だ。

学生の頃、彼女から「今度1か月留学するんだ」という話を聞いた。私は「そうなんだ、本場の英語を学べるなんていいね」と月並みの言葉を返した。すると彼女は「英語を勉強したいというよりは、外国の文化に触れたいと思っているんだ」と言った。
1か月後に会った彼女の目はキラキラ輝いていた。「海外と比べると、日本はこういうところが遅れている」「一緒に留学した日本人からも刺激を受けて、自分はまだまだだと思った」。学生の留学は、ただの旅行になってしまうことが多いと聞いたことがあるが、彼女の留学は目的を達成した意味あるものだった。そして英語もマスターして帰ってくるなんて、さすがだと思った。

彼女は志望する道じゃなくても、人生を正当化していく

ここまで書くと、彼女のことを「ルックスが良くて、お金持ちな子」と僻む人もいるだろう。しかし彼女の魅力は「大きな挫折を2回経験しているところ」なのだ。
1回目は高校受験、そして2回目は就職活動。どちらも人生を決めるであろう大きなタイミングにも関わらず、彼女は第一志望校、そして第一志望の職種に全落ちした。もし私が彼女の立場だったら、どんどん落ちぶれてしまうと思う。しかし彼女は、仕方なく入学した高校で自分の強みに出会い、仕方なく入社した会社で努力し認められた。まるで「落ちたことが正しかった」かのように、人生を正当化していく。よく、「過去は変えられないから、未来を変えよう!」なんて綺麗事を聞くが、彼女を見ているとこの言葉が綺麗事じゃないと一目瞭然だ。

改めて自分の学生時代のことを振り返ると「頑張った=辛かった」ではなく、「頑張った=嬉しかった」という方程式が成り立つ。当時は自由がなかったり、結果に一喜一憂したりと、精神的に大変だったのかもしれないが、そんなこと10年も経てば忘れてしまう。頑張ることは、一時的な辛さと一生の歓びを掛け合わせたものなのだと思う。

頑張ることのブランクがある私は、彼女を追い抜くことも、追い付くこともできないと思う。しかし、学生時代の私を追い越すことはできるかもしれない。

「会社員の私」と「社会人の私」

今、私の中には2人の私がいると思っている。それは「会社員の私」と「社会人の私」。
会社員の私は、おそらく今の会社に勤めている以上、そんなに努力をせずとも幸せに生きていけるだろう。会社が新しい事業に挑戦する場合は別だが、今のところそういった予定もなさそうだ。
社会人の私は、まだまだ未熟で自己成長ができると考える。例えば興味のある資格を取得すると今後の人生に幅が出てくるし、学生時代の部活動にもう一度挑戦するのも悪くないかもしれない。こうやって拙いエッセイを書くことだって、社会人の私のスキルアップの1つだ。そうやって前に進むことで、私の人生グラフは紆余曲折するだろう。

紆余曲折する人生グラフが、良いものなのかはわからない。ただ1つ言えるのは、私は「頑張ってるね」と言われるよりも、「ゆっこらしいね」と言われることが好きだということだ。良いことも、悪いことも全て含めて私らしい人生グラフが出来上がる気がする。

学生時代の地元の友人たちに、次会うときはこう言いたい。
「ねえ聞いて、私今こんなことに挑戦しているんだ。楽しいよ」
そしてこう言われたい。
「学生時代から変わらないね、ゆっこらしいよ」