安倍首相、緊急事態宣言延長へ。

テレビの前でくつろぐ私のもとに、そんなニュースが流れてきた。ああ、続くのか。次の一カ月は何して過ごそうかな。映画、筋トレ、料理、勉強、自分の趣味を拡げる月間にしよう。そう思いを巡らせていた時、ふと私の頭の中に一人の人物が浮かんだ。父だ。

電話では「人のぬくもり」のようなモノが無い

私が生まれてからずっと転勤族だった私の家族。10年ほど前からは父の単身赴任という形で対応し、父とは別れて生活していた。そして2年ほど前から父は千葉県に赴任している。私の住む神奈川県から車で数時間ほど。遠く離れた場所に赴任していた以前に比べ、父とは頻繁に会うようになっていた。

ちょうど今から二カ月前のことである。「ばいばい、次はそっちに行きたいな」
そう言って父と次の約束をして別れたのを覚えている。だが残念ながら、その「次」は未だ訪れていない。新型コロナウイルスの感染拡大が懸念される今、県を跨いでの移動など御法度であるからだ。

全く連絡をしていないということはなく、直接会えない代わりに父とは電話で連絡を取っている。しかし、そこには何か足りない。声を聴くことでコミュケーションを取れているつもりでいたが、限界があるのだ。直接会うことでしか感じられない、言葉ではうまく説明できない、何というか「人のぬくもり」のようなモノが無いのだ。

直接的な人とのつながりを改めて考える機会

会いたい人に、会いたいときに、会える。この有難さを自粛期間中に何度も感じた。父だけではなく、友人たち、アルバイト先の仲間など様々だ。人間の生活にとって「人のぬくもり」は無くてはならないモノであることに気づいた。

何となく人と話して笑い合うことは生活の一部に組み込まれすぎていた。後から振り返っても、話した内容なんて忘れているかもしれない。そんな、日常のとりとめのない会話の数々を失って初めてその価値に気付いた。

私がテレビを見ながら父を思い出したのは、一番身近な家族という存在であったからだろう。恋人、友人など関係性や相手は異なるが、会えない中で「人のぬくもり」を求める気持ちは皆が共通して抱いているのではないか。

当然だと思ってたことができなくなった今、改めて考えさせられるのは直接的な人とのつながりである。いくら技術が発展しても、これだけは超えられないのだ。

「次」が来ることは当然なのか

「またね」多くの人はそう言って人と別れる。当たり前のように「次」会えると思っているからだ。だが、「次」が来ることは当然なのか。もっと有難く感じるべきではないだろうか。

6月21日は父の日だ。父に「会って」感謝を伝えられる一日になることを願いながら、STAY HOMEに徹したい。