中学三年生の頃からツイッターとインスタグラムをやっていた。
気がつけばもうその頃から六年も経ってしまっていた。
SNSは自撮りの写真で溢れている。
わたしの脳は六年間もSNSに浸ってしまっていて"かわいい"の概念は固定化されてしまっている。それは最近日本で流行ってるかわいい。
皆二重でぱっちりした目に細くて長い手足。お人形さんみたいなルックス。
メイクの紹介動画を見れば出てくる単語は「二重幅にアイシャドーをのせて」。
インターネットは一重の私をかわいいとは言ってくれない
わたしは何をどう頑張ってみても一重。小学生の頃はあだ名がキツネ(一重でキツそうな顔をしていたので)だったけど、わたしは動物としてキツネはかわいいと思っていたからそのあだ名は嫌いじゃなかった。
なのにいつからだろうか。そのあだ名が呪いのように付きまとってきたのだ。
アイプチをして登校した。目のマッサージを毎日して鏡を見ながら、なんで一重なんだろう、と落ち込む日々。
こうなったのは私がインターネットに触れはじめてからだった。
それからひどく一重のコンプレックスを抱えるようになり、インターネットで一重の印象を調べた。これが良くなかった。
一重の印象で出てくるワードは八割がた否定的なものばかりなのだ。
SNSで出てくる女の子はわたしと違ってみんなかわいい。
小学生の頃の感覚を持った私はどこに行ってしまったのだろう?
インターネットは私のことを絶対にかわいいとは言ってくれない。そんなこと自分で分かっていながら検索を繰り返す毎日。
キツネはとってもかわいいのに。
一人がかわいいと思えばそれはかわいい
今は私のコンプレックスごと愛してくれる人がいる。それが私の目を覚まさせた。
インターネットは私のことを直接見ているわけではない。インターネットは言葉を話す人間なんかじゃない。
そこでかわいくない、と言われても私にいってるのではなく架空に言っている。
SNSのあの子はかわいい。
でも私はあの子にはないかわいいがある。
なぜネットごときに"かわいい"の定義を決めつけられなければならないのか?
一人がかわいいと思えばそれはかわいい。それを思うのが自分しかいなかったとしても。
わたしは私がかわいい
まだコンプレックスを拭いきれてはいないけれど、わたしは自分がかわいいと思うものをかわいい、と言うことに決めた。
もし誰かにキツネみたいだ!と言われたらそれを喜ぼう。もし誰かにかわいくないと言われても、その人はきっとまだネットのかわいいから抜け出すことができていないのだろうと思おう。
わたしは私がかわいい。
それは顔に限ったことじゃない。私自身、すべてが人間としてかわいいと思おう。
その目すらもいとおしいと思えるように。