いつからだったんだろう、頑張っても頑張っても「だめだなぁ...」と思ってしまうようになったのは。
たぶんそれは、大学に入ってすぐのことだった。
出席レポートを兼ねた感想文に手がつかず、ちらっと隣を見た。
「え...こんなに埋められるものなの...?」と驚き、こっそりレポートの中身を探ろうとしていたことを、忘れてしまうほどだった。
今になってみれば「講義で扱ったテーマは隣の子が興味のある分野で、たまたま私の興味から外れていただけなんだろう」とくらいに思える。
けれども当時の私は、一社会問題について感想文もろくに書けなかったことに落ち込んでいた。
死ぬほど勉強して大学へ入ったのに、まだ知らないことがあることが許せなかった。
頑張りすぎて自分を見失ってしまった…
それがきっかけで、勉強はそこそこにして、さまざまなコミュニティへ顔を出すようになった。
無理してでも、視野を広げたかった。
とにかく変わりたかった。
はじめは新鮮で楽しかったけれど、何度か顔を出すうちに、中身のなさが露呈するようで怖くなった。
その場についていこうとしても、参加できている自信がなかった。
その場は他の人が作り上げているもので、自分はただ呑み込まれているだけのように思えた。
頑張っても変われないという葛藤が、自分の中に芽生えた。
家族は、葛藤している私を真っ向から否定するようになった。
「今までのように、言う通りに勉強していればいいのに何してるんだ」と。
私は努力することが嫌になった。
頑張っても“気づかれない・報われない・評価されない”。
「むしろ傷つけられるだけだ」と思い、殻に閉じこもるようになった。
社会人になって自分の殻に閉じこもるようになってしまった
本格的に自分の殻に閉じこもるようになったのは、会社に入りいろんなことがあって休職してから。
閉じこもっていた期間は、自分が嫌だと思うことを全部やめた。
嫌な人には、家族だろうが誰だろうが関係なく、連絡をやめた。
とはいえ自分の殻に閉じこもるのも、時間が経つと飽きてくる。
頑張った末に「だめだなぁ…」に陥るのはもう嫌だ。
でも、頑張ろうとする習慣はそう変わらない。
しばらくボーッと考えていた。
ほどなくして、次の頑張り方が見えてきた気がした。
それは、誰かに評価されるだけの頑張りではなく、自分で評価できる頑張り。
他人の評価じゃなくて、努力は自分次第
頑張りを誰かに評価されることもあるけれども、それだけに囚われると努力は自己犠牲の代名詞になってしまう。
自分で評価できる頑張りなら、自己犠牲にはならないし、誰かに評価されるかどうかも気にならなくなる。
「自分で自分を評価できる」と書くと何だかかしこまった言い方になってしまうけれど「その時その時を楽しめる頑張りかどうか」と言い換えてもいい。
その時その時を楽しめれば、意識せずとも、自分を評価できるようになるから。
たとえば、私はヨガが好きだから、ヨガのライブ配信のために早起きするのは、楽しめる頑張りになる。
一方、車が好きな友達をみていると、愛車に乗り続けるために仕事と節約をするのが、その子にとって楽しめる頑張りなんだろうと思う。
運転の苦手な私には、ちょっとまぶしい。
誰かにとっての楽しめる頑張りが、自分にとってはそうでないことも、当たり前のこと。
当たり前だから、気にしなくていいのだと気づいた。
頑張れることでめいっぱい頑張ればいい。
嫌なら、やめていい。
自分に合わない頑張り方を押しつける人からは、離れていい。
やめられない、離れられないなら、テキトーに頑張ればいい。