「専業主婦にでもなってくれればいいんやけどね。」
私が以前の仕事を辞めてしばらく経った頃、母は一言そう言った。不思議だった。というのも、子どもの頃の私の目に映っていたのは、猛烈に働き続ける母親の背中だった。男女雇用機会均等法なんて名ばかりで、男性と給与に差があるのは当たり前、長時間労働万歳!、そういう時代だったので、その頃の母に余裕なんて言葉は存在しなかった。日々忙しく働いていたせいか、専業主婦に対する眼差しには厳しいものがあった。「専業主婦はいいよね。平日もゆっくりできて。」毎日吐かれるその言葉に影響された幼いころの私は、平日の昼間に子ども連れで散歩している専業主婦らしき人を見かけると、「あの人は暇なんだろうな。」と思っていた。現在、長年続けてきた仕事を辞め、考え方が変わったのだろうか。今の母の中では、専業主婦は安全地帯らしい。

結婚しているかどうかで線引きをされて、その価値を判断されている気がする

「毎日何をしているの?」
これは、よく他人から聞かれることだ。会社員だった時には聞かれなかったこと。以前働いていた会社を辞めたのにもかかわらず、転職もしていない私がどう毎日を過ごしているのか、みんな気になるらしい。「物を書いたり、料理をしたり、ギターを弾いたりしているよ。」私はだいたいこう答えているのだが、この回答で納得する人はほとんどいない。みんな、何か腑に落ちない顔をしている。でも、もし私が専業主婦だった場合はどうだろうか。同じような質問をされるだろうか。もちろん、子どもがいるのか、いないのかで状況が変わってくるとは思うが、少なくとも、専業主婦は、主に家事にあたり、(子どもがいれば)子どもを育てるのが仕事だと多くの人に思われているようなので、こういった聞き方はされないような気がする。でも、専業主婦の仕事も賃金をもらう仕事ではないと思う。どれだけ家事を完璧にこなしたとしても、誰からも賃金は支払われない。しかし、その仕事は「仕事」だとカウントされているように見える。でも、私の日々の活動は、同じように賃金をもらうことはないけれども、社会からは「仕事」だと捉えられていない気がする。つまり、シングルで子どももいない私がいわゆる会社員のような必ずお金に換算される仕事をしていないと訝しがられるが、専業主婦だとそれが許されるようだ。

必ずしもお金に換算されない仕事、例えば家事や創作活動などを、私がどれだけ自分の仕事だと思っていても、結婚しているかどうかで線引きをされて、その価値を判断されている気がする。同じ無職は無職でも、この国では結婚することによって、専業主婦(夫)という名を獲得する。母からすれば、状況が何も変わってなくとも、シングルの無職より、専業主婦の無職の方が受け入れやすいということか。

他人から仕事の価値を決められるのはおかしいと思う

母は働いていた自分と専業主婦の間に線引きをしていた。しかし、今や、自分自身が当時激しく差別していた専業主婦となり、「フラフラしているぐらいなら、専業主婦にでもなった方がいい。」と私に勧めてくる。濃ゆく引かれた線のこちら側とあちら側は、びっくりするぐらい流動的だ。それを考えると、賃金をもらう仕事なのか、あるいは必ずしもお金に換算されない仕事なのか、結婚しているのか、あるいはシングルなのか、などという線引きは、曖昧で、無意味なものに思える。一つ一つの点は区別されるべきものではなく、むしろ横の線でつながっているのだと気づく。その点から延びる線の延長線上に全てはある。

お金に換算される仕事だけが仕事ではないし、自分がどんなポジションに立っているかによって、他人からその仕事の価値を決められるのはおかしな話だろう。料理や掃除、物書き、はたまた花の水やりだって、その人自身がそれを仕事だと思っていれば、それはれっきとした仕事ではないだろうか。