私は多分、世間で言ういわゆる“だめんず・うぉ~か~”と呼ばれるタイプの女だ。
えっ、表現が古い?そうか、ならもっと包み隠さず言うと、多分“ヒモ飼い”というやつだ。

彼がお金を出さないんじゃなくて、私が出したいんだ

今でこそ、去年結婚した夫とは普通の夫婦として暮らしている。けれど、付き合いを始めた当初、貧乏大学生だった彼はその後大学を卒業してフリーターとなり、私の狭い1Kオートロック付きの部屋に転がり込んできていた。私はそんな彼に、当時生活費を1円たりとも要求していなかった。

当時働いていた会社の先輩や同僚にその話をすると、みんな興味津々な目で私を憐れみ、彼らによって私にはたちまち“ヒモ飼い”のレッテルが貼られた。
「あんた、面倒見いいもんねぇ、いかにも長女ってタイプだし」
「年下の彼氏だからって、自分の方が収入があるからって甘やかしちゃ駄目だよ」
「一緒の部屋で暮らしてるんでしょ?それなら生活費はちゃんと出してもらわなきゃ」
さながら私は、自分より年下の彼氏にお金を注ぎ込み続ける“可哀想な彼女”。私自身も確かに、ヘラヘラと第三者にはそう話していた方が楽だったのだ。自分と彼の状況を、すぐ人に理解してもらえるから。

けれど、世間一般のそんな“ヒモ飼い”女性は先ほども述べたように、ご多分に“可哀想な彼女”として認識される。理由は簡単だ、ヒモと呼ばれる男性と“ヒモ飼い”女性のパワーバランスは、圧倒的に前者が強いイメージがあるから。彼女たちはどこまで尽くしても、彼がお金を出さない状況と思われている。

事実、きっと“ヒモ”と呼ばれるような男性との付き合いを続けている女性の中には、自分たちの付き合い方はこのままでいいのかと、悩み続ける人もいるのだろう。けれど、私は彼とのそんな付き合い方を悩んだことは一度もなかった。
なぜならば、私と彼とのお付き合いは「彼がお金を出さない」のではない。
ただ単に「私がお金を出したい」だけだったからである。

私がお金を出し続けた理由…それは、ただ彼と一緒にいたかったから

自己肯定感が驚くほど低い私にとって、彼は初めての彼氏と呼んでもいいかもしれない人だった。そんな曖昧な言い方をするのは、私たち2人が身体の付き合いからずるずると始まった関係だったからだ。
それでもなんだかんだ一緒にいる時間が増え、いつの間にか彼は私の家に居つくようになった。それは、私が彼と一緒にいる時間を増やしたかったから「私の家に居ればいいじゃん」と彼に言ったことが発端にだ。
私が「一緒にどこかにデートしよう」と誘っても、彼は「自分がお金がない」とそれをいつも申し訳なさそうな顔で断る。彼にそんな顔をさせたくなかったし、私は彼と一緒に居たかったし、私がお金を出せばそんな些細なことは全て解決してしまう。2人ともハッピー、そんなの最高じゃん。

私が彼に美味しいご飯を食べて欲しかったから、私が一緒に映画を見に行きたいだけだから、私が彼と楽しいお酒を飲みたかったから。私が彼にお金を出していた理由は、それ以上でも以下でもない。他者にとやかく言われたり邪推されるような可哀想な状況は、私と彼の間には一切ないのだ。
逆に言えば、きっとそうでもしないと自己肯定感の低い私は、心のどこかで「彼に一緒に居てもらえない」と思っていたのだろう。だからこそ、私は自分の意志で「彼にお金を出したいから出している」と、私を“ヒモ飼い”だと思っていた周りの人にちゃんと言えばよかったなあとも思う。

私は、彼に流されているわけでもなく、逆らえないわけでもない。私の意志で、お金がなくても彼という人間を魅力的に思い、一緒にいることを選んでいるんだ。
何にしても、自分の意志で行動している、ということは大事だ。その行動の結果が幸せであろうと不幸であろうと、その未来を望んだのは誰でもない私になるのだから。

私は可哀そうなヒモ飼いじゃない!自分の意思で幸せを掴んでいるんだ

ただしこれはきっと、言い方を考えないと最悪の場合「彼にお金を出してもらえない」女性より、可哀想に見られるだろう。私はこんなに自分の選択に自信を持って、彼の“ヒモ飼い”になるという立場を選択していたのに。感覚を言語化して人に伝えるのって難しいなあ。
行動原理としては、二次元でも三次元でも“推し”に課金しているタイプの人たちと近いような気がしている。彼を推すことを選んだのは私の意志だし、私は幸せそうな推しが見たいから、その手段が課金であっただけの話。私が元々、生粋のオタクだからかもしれないけれど。

だからもし、私のように“だめんず”を捕まえやすいタイプだったり、ヒモと呼ばれる男性との関係に悩んでいたり、辛いと考えてしまう女性には、ぜひこの発想の転換をしてもらえるといいかもしれない。
そして、ぜひ世の中の“ヒモ飼い”の女性を憐れんでいる人たちには、こんなにハッピーな“ヒモ飼い”もいるということを知ってもらえればとも思う。