生まれてから四半世紀と少し、思い起こせば幼稚園児の頃から他愛もないウソをたくさんついてきた。宿題をやっていないのに「宿題やったけど、家に忘れました」と先生には報告したり、好きな人なんていないのに同じような話題に入れないのが嫌で「●●くんが好きなんだよね…」と仲の良い友達と恋バナしたり、ガリ勉だと思われたくなくて「勉強してない、やばい」とテスト前に聞かれてもないのに言ってみたり。もちろん度が過ぎるウソは良くないだろうけど、昔からウソを吐くことが悪いとは思っていなかった。小さなウソはわたしの心を楽にするための手段であり、周囲の人と円滑な人間関係を築くための潤滑油だった。

昔と違って最近はウソを吐く自分に不快感を抱くようになった

 今でもよく小さなウソを吐く。仕事に行きたくない時の「体調が悪いので休みます」。友達との約束に遅刻しそうな時の「電車が遅れてて…」。行きたくない飲み会を断る時の「先約があるんだよね」。ウソの種類は小中学生の頃から変わっていない。その場しのぎのウソ。自分が楽になるためのウソ。誰かを傷つけたりしないウソ。とりとめもないウソ。この手のウソを吐いたことがあるのは絶対わたしだけじゃないと思うし、わたしがウソを吐いた相手も似たようなウソを違う誰かに吐いたことがあるだろう。でも昔と違って最近はウソを吐く自分に不快感を抱くようになった。

 最もよく吐く小さなウソで、最も不快感を感じるのは、仕事を休む時に吐くウソだ。「お腹が痛いので休みます」と言って会社を休んだ日には、本当にお腹が痛くなった気がして結局休めた気がしない。まさに【嘘からでた実】。仕事を突然休む時に吐くウソは休んだ日の次の出勤日まで不快感をもたらす。そう、金曜にウソを吐いて休んだら翌週月曜までずる休みしたことに心がモヤモヤするのだ。1日を楽して過ごしたいがために吐いた小さなウソで3日も苦しめられるなんてなんて不合理なんだろう。前もって有休申請をして休む分には不快感も抱かないし、有休を心から楽しめるから、『休むこと』ではなく『体調不良というウソを吐いて仕事を休むこと』に罪悪感を抱くのだと思う。学生時代に体調不良とウソを吐いて学校を休むことには何の躊躇いも罪悪感もなかったのに、何が違うのだろう?

自分がずる休みするような不誠実な人間だと周囲にバレるのが嫌

 この解答は別に成長して心が綺麗になったからとか、ずる休みすることでみんなに迷惑がかかるとわかったから、みたいな清廉なものではない。わたしはそんな誠実で真面目な人間ではない。自分がずる休みするような不誠実な人間だと周囲にバレるのが嫌なのだ。どこまでも利己的。仕事を突然休むと同僚に迷惑がかかってしまうから自分のウソに不快感を感じるのではなく、周囲に迷惑をかけてまで自己利益を追いかけるような人間だと思われるのが嫌で不快感に駆られている。体調不良を言い訳にすると、周りから形だけでも心配されてしまうから余計に不快感に拍車がかかる。

どのようなウソなら自分の心が楽になり、後悔もしないのか

 わたしはわたし自身が小さなウソを吐くことで自分の心が楽になるのであれば、どんどんウソを吐いても良いと思っている。なんでもかんでも事実を馬鹿正直に話す必要は無いと思う。本音と建て前、【嘘も方便】、だからこれからも自分が楽になるのであれば、ウソを吐き続けるだろう。でも、会社をずる休みする時みたいに、ウソを吐くことで逆に苦しむのであれば話は別だ。自分の心が楽になるために吐いているウソに苦しめられるなんて本末転倒である。どのようなウソなら自分の心が楽になるのか、どのようなウソなら吐いて後悔するのか、四半世紀と少し生きただけでは完全に判別するのは難しい。ただ、わたしは嘘つきだし、他人も多かれ少なかれ嘘つきであることを自覚して、【嘘つきは泥棒の始まり】なんて固いことを言わずに、時には小さいウソを混ぜながら軽やかに生きていければいいんじゃないかと思っている。