「半袖一枚で大丈夫」と、言って家を出た。

空の青さは日に日に濃さを増して、昔何も考えずに塗っていた絵の具のコバルトブルーみたいな色をしている。裏通りの家に咲いている紫陽花。冷気もない、熱気もない5月の空気。だけど、底にどこか熱を持った空気があるのを感じる。河川沿いの水の匂い。苔の匂い。汗の匂い。突然面白い声をして鳴く虫の声。

私の感情を豊かにする東京の街は、人々と共に輝いている

自転車に乗って3駅先のスーパーへ買い物に行く。自転車に乗っていると、眠い頭もすぐに冴えてくる。

ロードコースは、東京タワーを脇目で見れるように公園の中を通って、芝生の上でもどんどん走っていく。ゴーッゴーッと音を立てて走り抜けていく車に注意しながら遊歩道を走り、首都高の真下にある狭い道をひたすら真っ直ぐに進んでいく。

首都高の真下の道では、颯爽と犬の散歩をする人、スケボーやダンスの練習をしている団体、軽快なリズムでランニングをする人など色んな人たちとすれ違う。首都高の下は多くの車が通るせいか、どの時間帯も大きな音が響き渡っている。

けれどもそんなことは気にせず、この場にいるのがふさわしいようにみんなそれぞれが光り輝いて見える。

ただ端的な道。だけど、東京は例え1駅違うだけで街も人の営みの様子も180°くらい変わっていくのかと、豊かな感情を抱かせてくれるお気に入りの道だ。

どうして…夏に見る物は全てが美しく見えるのだろう

自転車に乗って、私はボケーッと街を見ていた。街を見ていると、心はざわつき出し、ありとあらゆる情報を吸収してしまう。夏の気配はもう十分に感じて、ふと目を向けると自分の思い出と重なって見える景色の数々。

今、思い出すと本当に泣けてくる記憶がある。来なかった人をずっと待っていた日のこと。その年の一番暑い日に倒れ、そのまま起き上がることはなかった恩師のこと。

だけど、どうして夏に見る物は全てが美しかったのだろう。

微かに照らす光でも、物体その物を強く映し出して頭から離れない。今朝の汗まみれの枕も、毎年おばあちゃんが作ってくれるしそジュースも、かき氷のシロップも全部。光は常に揺れいていて、部屋の中も道路にも、人が動く範囲にはどこにでもついて来る。

夏は「暑い、暑い」と気温で体感するよりも前に、強い光を見つけると視覚でもう来てしまっていることを告げてくれているのだ。それと同じく、お店で「冷やし中華始めました」の張り紙を見たら、もう完全に夏が来たはず。

夏が来る前の一人時間が私のかけがえのない宝物になる

落ち着いた静寂、静かな心。それは夏に近づくと、なかなか感じにくくなるもの。

だから、誰でも心に一つそれぞれの静かな海を持つべきだと思っている。それは、一人の時間だからこそ見られる景色があるから。家族やスマホから離れて、物理的にも心理的にも一人だと感じて、内面と向き合う時間を作る。

ふとした瞬間、人の動きや光の質感や匂いから、一人の時間が浮き出る。みずみずしさももどかしさも、息苦しさも喜びも、生きることへのどうしようもない気持ちも溢れ出した時、夏の空気にすべて圧縮されて、記憶の一部となり自分だけの宝物になる。

一人の静けさから、かけがえのない思い出に思いにを巡らせた、特別でない平凡な一日もまたそう。

そして、私は自転車をこぎ始め、目的地へ真っ直ぐ向かったのだった。