私は子どもの頃、小さな子どもが嫌いだった。

今は嫌いというほどではなくなったが、「苦手」という言葉がしっくりくる状態だ。小さな子どもが目の前に現れたとき、周りの女の子たちは「かわいい~」と言い、「いくつ?」「お名前は?」などと話しかけたりしているが、私はどうしていいかわからなくなる。正直、子どもというだけで「かわいい」と感じることはあまりないし、接し方がわからない。でも、周りの女の子たちと温度差ができるといけないと思い、ふにゃふにゃと曖昧な笑顔でやり過ごしてしまう。

「子どもが嫌いな人なんているの?」その一言に罪悪感が芽生えた

大人、特に女性であると、「子どもが苦手」とは言いづらい。

以前勤めていた職場の人たちと、あるイベントで出かけていたとき、先輩が幼稚園くらいのお子さん2人を連れてきていた。私の同期の女の子たちは「かわいい~」と口々に言い、話しかけたり遊んだりしていた。そんな盛り上がりがひとしきり終わったあと、一人の子が言う。
「私子ども大好き!ていうか、子ども嫌いな人なんているのかな?」
うっ、と何故か罪悪感のようなものが芽生えたが、別の子が「そりゃあ中にはいるよ~」と答えており、少しだけホッとする。そうか、子どもが好きな人には信じられないことなんだ…「嫌い」から「苦手」までは克服したけれど、やはり「好き」にはなれない私は、幾度となく複雑な思いを抱えてきた。

「子どもを持たない」という選択を、彼には言えない

子どもが苦手な私は、自分の子どもを持つことにも消極的だ。
「子どもが苦手でも、自分の子どもはかわいいよ」という声もよく聞かれるが、産んだことのない私にはわからないし、試しに産んでみるということもできない。公共の場で泣きわめく我が子を一生懸命あやしている世のお母さんたちを見て、自分には到底できないと思う。仕事や私生活だって制約が生まれるし、産休・育休のブランクもある。生まれてくる子が必ず健康ですくすく育つとも限らない。「それでも産みたい!」と思えるほどの情熱が、私にはない。

もちろん子どもは勝手に生まれてくるわけではないので、子どもを持たないという選択もできる。問題は、子どもを持たないことは、私ひとりの意思で選択できることではないということだ。
私は未婚だが学生時代から付き合っている人がいて、20代も終盤となった今、その人と結婚できればいいなと思っている。だが、子どもを持つ気に(今のところ)なれない、ということは話せていない。もし彼が将来子どもを望むのであれば、結婚を諦めて彼から離れるか、覚悟を決めて我が子を産むか(もちろん必ずできるとは限らない)。どちらかを選ぶことになるとしたら、どちらにしても早めが良いのだけど、結婚の話も出ていないのに「子どもは欲しい?」と聞くのは気が引けるし、何よりもし彼が「子どもは絶対欲しい」と思っていたら…と考えると怖くて聞けない。

あえて産まない女性に対しても、偏見が生じない社会に

もし彼が子どもを望んでいなかったとしても、「子どもを望んだが授かれなかった」ではなく、「あえて子どもを産まなかった」という、いわゆる「選択子なし」に対しては偏見や非難も根強い。「少子化なのに」「親不孝だ」「私の子にあなたの老後の生活を支えさせる気か」など。それぞれ「産みたい人が産めるようにするのが先決じゃないの?」「子どもを産む以外に親孝行はないの?」「私は上の世代を支えてきたから、下の世代に支えられる権利はあると思うけど?」と返したいが、罪悪感を全く覚えずに生きられる自信はない。「産めるかもしれないのに、産まない自分」を責めてしまうかもしれない。そして夫となる人、もしかしたら今の彼に、同じ思いをさせるかもしれない。

女性向けWebコラムに溢れる、「彼に結婚を意識させたいなら子ども好きをアピール!」の文言には辟易するが、やはり世間には「女性は子どもが好きで、いつか自分の子どもを産みたいと願っている」という風潮がある。子どもを産みたい、産んだ女性が不当な扱いを受けない社会の実現はもちろん急務だが、子どもを産みたくない、産まない女性の悩みにも、もう少しだけ、耳を傾けてほしいと願う。