わたしはADHDの注意欠如の疑いがある。
普通のことが普通にできない自分に、悲しさと怒りが込み上げる日々。
書類の提出をどうしても後回しにしてしまい、直前で慌てる。挙句、提出期限を忘れることもしばしば。そんな、物忘れに関すること。

仕事柄、幅広い年齢の子どもたちと毎日接しているが、ある水曜日、ひとりの子どもにあることを指摘された。
「テーブルの配置がいつもと違うよ?」
この子たちには、毎週水曜日に会う。
この何ヶ月間、毎週同じ位置に置いていたはずのテーブルの配置が思い出せない。
子どもたちは私よりもよく覚えている。
「ごめんねー!いつもの配置に戻してくれる?」そう言うと、
「しょうがないな~」そう言ってテーブルを動かしてくれた。
「来週はその配置にしとくね!」

何度も交わした約束、忘れるたびに落ち込んだけど……

そう約束したわたし。そして1週間後の水曜日。
「またテーブル間違ってるじゃん!」
テーブルの配置を言われた通りの配置にするのをすっかり忘れていた。
「ごめんね忘れてた...来週はやっとくね!」
そしてまた1週間後。
「...テーブル。」
また忘れていた。
そんなこと、と思うかもしれないが、物忘れの激しさを何年も気にし続けて、書類の提出期限や約束事を忘れてしまう度に、申し訳なさと情けなさで何度も何度も落ち込んで自分を責めてきたわたし。こんなちょっとしたことでも、毎週毎週忘れ続けたことがショックでたまらなかった。
「来週は、絶対に覚えとくから!!」
そう言って、また1週間が経った。
子どもたちが来る数分前に、ハッと思い出し、テーブルを子どもたちの言う位置に配置した。「やっとかよ~」、そう言われるんだろうな。そんなことを想像しながら子どもたちを待つ。
そして子どもたちが来て、第一声。

「すごいじゃん」その一言に救われた

「お。やっとテーブルできてる。覚えてたね~すごいじゃん。」
まさかの言葉だった。
社会に出た大人が、やるべき事を忘れ続けて、3回目、3週間後にやっとできた事。そんなことを褒める大人が、一体どこにいるだろうか?

これまで、普通の人が当たり前にできることがどうしてもできず、自分で自分を責めるばかりだった日々。自分では精一杯、普段以上の力を発揮できたとしても、書類を提出期限の3日前に提出したくらいでは大人は誰も褒めてはくれない。当たり前だ。なぜならそれは、普通の人からしたらなんでもないことだから。わたしにとっては偉業とも呼べることなのに。
そんな中、こんなわたしを褒めてくれる子どもがいた。わたしの物忘れのひどさを知っていたからこその言葉。その子にとってはなんてことない一言だったのだろう。それでも、その一言にわたしはものすごく救われた。
覚えていた、たったそれだけのことを褒めてくれるのか。
そうだ、わたしにとっては「テーブルを正しく配置しなければ」ということを覚えていたことは、ただそれだけで褒めてもよいことなのだ。そんなことをその子が教えてくれた。
それからは普通の人にとっては当たり前のことでも、自分には難しいことを成し遂げたとき、少し、自分で自分を褒められるようになった。

自分で自分を褒めたら、前を向けた

周囲からの理解を得るのが難しい、そんなわたしだからこそ、自分なりの大きなハードルを、それは他の人たちにとっては小さな小さなハードルだったとしても、自分だけは、そのハードルを越えた自分をきちんと褒めてあげよう。この性格を、障害を、受け入れなければならない。そう思った。

「普通の人はこれくらいできる」そうじゃない。人にはそれぞれ違う高さのハードルがあり、それが周りと比べてどれだけ低かろうが、時間がかかろうが、そんなことは関係ない。乗り越えたことは自分で自分を褒めなければならない。
身近な人ですら、理解を得るのは難しい。自分ですら、どうして?どうして?と、自分を責めてしまう。それをやめて、小さな小さな成功に目を向けてみよう。そんな大切なことを教えてくれた、子どもの一言。