「お仕事は何をなさってるんですか?」
「あ、えーと教員です」
「えー!!!すごいですね!わたし全然勉強好きじゃなくて……」
初対面の人と出会ったり、美容院に行くたびになされるこのやり取りにもすっかり慣れてしまったけれど、未だに「すごい」と言われることには慣れない。
学校の先生は「すごい」「賢い」と評価を受けることが多いけれど
いやいや働いてる人はみんなすごい、というか私たち、生きているだけで100点満点でしょ?なんて思いながら適当に相槌を打つことを繰り返している。
学校の先生をしているというと、無条件で「すごい」「賢い」という評価を受けることが多いことに気づいたのはいつからだろう。
正直わたし自身は全然すごくもなんともない普通の人間なのだけれど、学校の先生というだけで社会的信用とやらもあるし、どうやら両親も鼻高々らしい。
そもそもわたしが学校の先生になったきっかけ自体が、わりとひねくれているというのもあるのかもしれない。
だから、今日はそんなわたしの一風変わった「学校の先生になったワケ」をできるだけ多くの人に知って欲しい。
そして、こんな先生もいるんだよということをぜひともアピールしたいと思うのだ。
ある先生の言葉が突き刺さった。「いろんな先生がいないと」と思った
わたしが学校の先生を志したきっかけは、大きく二つある。
どちらも学校の先生との出会いがきっかけだが、印象は全然違うものだ。
まず一つ目は中学生の頃の国語の先生との出会いだ。
このエピソードは、いわゆる採用試験のときの面接なんかでも話したものだ。元々国語が得意だったのもあったけど、この先生と出会ってますます国語の魅力に気づくことになった。
「将来なりたい職業を調べましょう!」という授業ではその先生にインタビューをし、優秀な作品として褒められるくらい工夫を凝らしたレポートを作った記憶がある。
流れるような達筆で書かれた黒板と、息も止まって引き込まれるような授業。いつだって国語の授業が一番楽しみだった。
そんな先生みたいになりたいなと思ったのがまずは一つ目のきっかけだ。
しかし、高校に入ってから大きく環境が変わったことでわたしは学校というモノに対してモヤっとした思いを抱えるようになった。
この辺りの話だけでエッセイが書けちゃいそうなくらいいろんなことがあったけれど、一番感じたのは「クラス」という小さなコミュニティに閉じ込められる辛さだ。
高校三年生のとき、些細なことがきっかけでクラスにイマイチなじみ損ねたわたしは、二年生の頃にもクラスが同じだったある一人の友人をそれはそれは頼りにしていた。
毎日彼女が休んだらどうしようという不安を抱え、ランダムに組まれた体育のグループで肩身の狭い思いをしつつ、休み時間は机に突っ伏してばかりで過ごした。
三年間熱中した部活には、居場所があったと思う。それでもわたしは、学校生活の大半を過ごす「クラス」というコミュニティの存在に頭を悩ませていたのだ。
こうして、一つ目の先生との出会いの後、高校時代で学校に対してモヤッとした思いを抱えたまま、わたしはなんとなく文学部に進んだ。
二つ目は、大学に入ってからお話を伺った、ある先生との出会いだ。
その頃は自分の性格やらなんやら現実が見えてきて、学校の先生なんて全く自分に向いていない職業だなあとぼんやり考えていた。
しかし、実際に学校の先生になるかどうかはともかく教員免許は一応取ろうかなという軽い気持ちだけはあった。そして、免許取得に必要なある授業を受講していた際、教授が見慣れない女性を連れて現れた。
その女性は教授のかつてのゼミ生で、この春にこの近くの学校の先生になったばかりだという。免許取得に必要な授業ということもあり、学校の先生を志す生徒が多いことも知って、教授はきっと彼女を呼んだのだろう。
「みんなのためにちょっと話してあげてよ」と教授が声をかけると、彼女は少し照れくさそうに、でも自信に満ちた表情で、「私は、学校が大好きだったので、学校の先生になりました」と言い放った。
その後にどんなエピソードを彼女が話したかは正直全然覚えていない。でも、初めのその一言が、鮮烈に突き刺さり、今もわたしを構成する一部になっているのだ。
そしてわたしは思った。
「学校が好きな人ばかりが先生になったら困るじゃん。いろんな生徒がいるんだから。いろんな先生がいないとだめでしょ。わたしみたいに、あんまり学校が好きじゃなかった先生も」
学校の先生はこういうものだ、と一括りにするのはやめてほしい
この二つ目のエピソードは採用試験の面接ではウケなさそうだと判断して心に秘めたままだった。今でも学校の先生になった理由を聞かれることがあるが、一つ目を話すことが多い。
だけどわたしは、本当は二つ目を声を大にして伝えたいと思っている。
冒頭では世間からもたれるポジティブなイメージをメインに述べたが、正直この職業というだけでネガティブなイメージを持つ人も一定数いらっしゃることは重々承知している。
それは仕方がないだろう。みんないろんな人生を生きてきて、わたしと同じ職業の人に消えない傷を刻まれた人がいることもわかっている。
だからこそ、学校の先生はこういうものだ、なんて一括りにするのはやめてほしい。
ドラマやニュースなんかの影響で固まった、いわゆる学校の先生像というものを変えて欲しいと願うのは難しいことなのかもしれない。
だけど、わたしみたいな学校の先生の存在が、一人でも多くの生徒を救えるならこんなに幸せなことはない。
学校の先生はわかっちゃくれないと嘆くあなたへ
わたしみたいな先生もいるよ。