「報告があって…彼氏ができたの」

大切な友人がしあわせになって、嬉しくないはずがない。けれど、素直に喜べない自分が心の奥底に息を潜めている、そのことに何度嫌気がさしただろうか。
知らないふりをして、悟られないようにして、いつもよりも大げさに歓声をあげる。

6月、いそいそと夏の準備を始める季節。しとしとと降り続く雨に、充実を求めて無理に出かける必要はないと言われている気がする1ヶ月。
そして、わたしがまた一つ歳を重ねることになる月でもある。

恋人いない歴=年齢というだけで、しあわせに自信を持てないわたし

わたしには、これまで恋人がいたことがない。多くの人と同じように、小中高と共学に通い、4年間の大学生活を送り、就職をして現在に至る。しかし、その間に恋人という存在がいたことは、一度も、一秒たりともなかった。
好きな人ができたり、告白したりされたりは、人並みに経験してきたはずだ。ただ、タイミングが合わなかったり、お付き合いする気になれなかったりと、のらりくらり過ごすうちにここまできてしまった。

素敵な大人に囲まれているおかげで、歳を取ること自体に抵抗はないけれど、恋愛コンプレックスに関しては年々ひどくなるばかりだ。思えば、もっと気楽に恋愛しておけばよかったのだ。そうしたら、今になってこんなに臆病にならなくて済んだはずなのに。

“結婚しなくてもしあわせになれる時代”
わたし自身もそう思う反面、“しあわせ=結婚”の呪縛に囚われ続けてもいる。
「しあわせに生きていてくれれば、それでいいのよ」
母がくれた言葉はかけがえのないお守りとなっているが、どうしてもその言葉の裏に“素敵なパートナーを見つけて”という意図を感じてしまう。
わざわざ帰省するのに、浮いた話の一つや二つも持ち帰れない娘のわたし。「大丈夫よ、いずれ必ずいい人が現れるから」というあたたかく優しい慰めは、時に虚しく、ずっしりと響く。
わたしがおしゃれをすれば「素敵だ」と褒め、ドレスを着れば写真をせがみ、卒業式の袴にはわたしよりこだわった母。ウェディングドレス姿なんて見せたら、どれほど喜んでくれるのだろうか。こんなわたしでは、それは叶わないかもしれない。

恋愛コンプレックスが「わたしのしあわせ」に重くのしかかる

周りの人に恵まれ、やりがいの溢れる仕事をさせてもらって、ささやかでも充実した生活があって。“わたし今、しあわせだよ”と、心からそう言えるのに、どこか引け目を感じてしまうのはどうしてなんだろう。

つまずきもがきながら、せっせと育ててきた自己肯定感は、恋愛コンプレックスに対しては少しも太刀打ちできていない。そして、まともに恋愛をしたことがないという事実よりも重くのしかかるのは、わたしはそんな自分を全然受け入れられていないのだということ。
自分の味方でいられなくて、肯定してあげられなくて、誰がわたしを大事にしてくれるのか。自分で自分を満たせなくて、誰かを大切になんてできるはずがないのではないか。
今のわたしには、コンプレックスを無理やり解消しようと苦しむことよりも、それを抱える自分を否定せず、そのまま受け入れる覚悟の方が必要なのかもしれない。

信じていい!わたしの隣で笑う「理想の人」はきっといる

“理想の人が、突然目の前に現れると思っているの?”
自分にぴったり合う人が都合よく現れて、いとも簡単に相思相愛になるハッピーエンド。そんなドラマの世界のようなことはそうそう起きないのだと、とっくに知っている。
それでも。

それでも、わたしは信じている。
互いに思いやりを持ち寄り、些細なことでは揺るがない信頼関係を築いていける人がいるということ。
大切にしたい・されたいと願い、そのための努力を怠らないで一緒にいられる人がいるということ。
その人のことと、その隣で笑う自分のことを好きでいられる人がいるということ。
わたしにだって、きっと、絶対に。

笑顔の裏に膨らみ続けるコンプレックスを隠して、わたしはこれから先も、もがきながら生きていく。