テレビから流れる、不安をあおるニュースの数々。毎日増える感染者のニュースと、それを直接的にではなくても間接的に責める誰かの怒りや悲しみ、あきれがあふれる日々。「誰か」の感情が自分の中にどんどんと流れ込む毎日を何とか楽しもうと、必死に暮らしを楽しくするための情報をわたしは追い求めた。きれいに盛り付けられた手作りお菓子のレシピ、エクササイズの方法、おすすめの化粧品、かわいい洋服……。華やかで、美しくて、正しい、宝石箱に入れられているみたいにきらきらとした日々を切り取る写真をスマホのフォルダーに保存して、せめてこれから来るであろう楽しい未来を描こうとした。
同じ環境なのに、私だけキラキラしていない。不安と劣等感が渦巻いた
しかし、次第に、それらへの見方は変わっていった。
否応なしに自分の嫌な側面を突きつけられる気がするようになったのだ。日々更新される充実した彼らの日常に比べ、同じ「外に出られない」という環境に置かれているはずなのに、わたしは恋人もいなくて、友だちも少ない。そんな考えが頭から離れなくなった。孤独で、寂しくて、社会に必要とされない自分の人生と向き合う時間が増えていき、どんどんと身体のどこかが削られていくような気がした。
外の世界にあふれる不安、そして自分の中から出てくる劣等感。二つの環境がぐるぐるぐちゃぐちゃして、どんどん感情がかき乱される気がした。情報の海におぼれていくうちに、次第に苦しくて、息ができないような閉塞感に襲われるようになっていった。
やりきれない感情を綴ったノート。もう一度そのページをめくった
そんなとき、ふとかつて綴っていたノートの存在を思い出した。それは、高校生のとき、ひそかに自分の中にある劣等感、恥ずかしさ、やりきれなさ、哀しみ、そして孤独を吐き出して書いていたノート。今ならば笑い飛ばせるような、けれど当時のわたしにとっては真剣な悩みそのものだったことから、未だに自分の癒えない心の傷となった後悔や痛みまで、様々な感情を残していたものだった。
やりきれなくて居場所がない、どろどろに溶けた感情をなんとか解放しようと書き殴ることで、明日を生きる力をどうにか生み出していた存在。大学生になると、忙しさからそのノートと向き合わなくても日々を生きていくことはできるようになってしまったけれど、かつてそうして不安と戦い、なんとか毎日をかさねてきたからこそ、今の自分があるのだと思う。
そんなノートとを、久しぶりに取り出してみた。日付を書き、おそるおそる書き出してみる。最初はなかなか筆が進まなかったけれど、だんだんと文字で埋まっていった。今抱える思いを、少しずつ吐き出していく。すると、書き終わったころには身体を渦巻く感情の渦を冷静に客観視し、体に重くのしかかる闇を、少しだけ取り除くことができるような気がした。
苦しくなってもきっと大丈夫。負の感情を少しずつ軽くして生きていく
この期間が終わったあとも、ふとしたときに追い詰められて苦しくなってしまうこともあると思う。けれど、きっとあのノートがあれば、わたしはまだ、この世界でも、生きていける気がする。