私には日本で生きていくうえで、あるマイノリティのアイデンティティを持っている。
いろんな経験をして、友人作りでも、恋愛でも、住むのも、転職でもいろんな場面で嫌なドキドキを抱えて生きてきた。
なんのマイノリティなのかは公表はできません。差別を受け続けているから怖くてしかたがない。

それでも私は受けてきた差別に対して「NO」の声をあげてきた。大々的なものではないけれど、職場や友人たちに少しずつ伝えていき、SNSでも意見や思いを発信するようになった。

そこで受けた印象は、“無関心”。

「無神経な言葉」が、被差別者を傷つけることもあるということ!

差別って、差別される側の問題じゃないんです。
たとえば、“環境問題”って、環境が破壊されていくことですよね。でも、これって環境が悪いんじゃなくって、破壊していく人間が悪いんです。
環境問題っていうと、あたかも環境に問題があるみたいだけど、そうじゃない。
“性的マイノリティの問題”や“在日外国人問題”、“部落問題”もそう。ぜんぶ差別する側の問題なんです。
私は、“性的マイノリティに対する差別問題”、“在日外国人に対する差別問題”、“部落に対する差別問題”って呼んで、「差別している」って実感しないといけないんじゃないって強く思う。

私は差別を散々受けてきて、日本社会にあまり知られていないような事実を細かく伝えておかしいと主張してきて、つらい思いやしんどいことを伝えてきたけど「じゃあうちらに何をして欲しいの?」「今はそんな風に思う人ばっかじゃないよ!」とか、そういう無責任な言葉しか返ってこない。

もっというと、前の職場の人たちの集まりの中で同じように主張すると「なんで会議とかでもっと言わんかったん? そんな熱い思いがあるなら言ったらよかったのに! なんで辞めちゃったん、もったいない」という言葉が。

「は? なに言ってるんですか?」
あなたに何回同じことを言ったと思ってるんですか?
合計4年間同じクラスを担った中で、何度も伝えてきた相手だった。
そのとき鼻で笑ったり、軽く流したり、うやむやにしてきたくせに何をおっしゃっているんですか?

他にも「それを(ある場所で)言って欲しい! その声が必要だ!」「個人が好きってだけじゃダメなん? 例えば、僕はあなたのマイノリティも含めて好きやけど」とか、良いこと言ってる風だが、いっとくけどめちゃくちゃ無神経だから。

もし、初めて聞く話だったとしてもその返答は被差別者を傷つける。

私は差別の被害を受けた人の声を聞く前に、彼らの気持ちを考えたい

分かりやすいように言い換えると、

差別→いじめ
社会→クラス

に例えるとして、

いじめられている子が声をあげているのに、周りのクラスメイトは見て見ぬふりや「あなたのことは好きだからそれでいいじゃん」って言って、いじめられていることに関わろうとしない、助けようとしない。
さんざん「わたしは誰々にいじめられているからしんどい! こんなのおかしい!」と声をあげているのに、周りは相手にしないうえに「そんなに熱い思いがあるならホームルームで言えば良いよ!」とか言ってたら「は?」ってなりません???
そういうことなんです。

よく勉強会とか講習で、当事者に依頼して講師をしてもらっていることがあるけど、もし当事者が志願して講師をするならなんの問題もないと思うんです。
けど、“依頼する”のは間違っていると思う。
当事者たちはさんざん声をあげていて、ネットや本でも、調べようと思ったらその問題性はいくらでも見つけられる。学べるんです。
なのにいちいちしんどかった経験や思いを大勢の前で喋れって?
性暴力被害者に被害内容を大勢の前で喋れって言います?
それはセカンドレイプだって誰もが思うのに、他のカテゴリーになると結びつかないのが疑問で仕方がない。

差別被害者は、もう十分苦しんでいるししんどい思いをしているし、そのうえで立ち上がって主張してきているんだから、もう当事者に語らせる時代は終わりにしないと。

自分が「差別をする側」にならないように、学んで理解していきたい

私たちは、何かしらマイノリティで、なにかしらマジョリティだと思う。
知らない間に、そんなつもりなくても差別的な発言をしているだろうし、そういう風に思っているかもしれないってことを肝に銘じて、もういい加減差別をする側、してしまっている側が気付いて社会を変えていかないと。

英語でいう“理解する”は、“Understand”。
Underは下に、Standは立つという意味を合わせている。

分からないことは「教えてください」って、下の立場になって学んで理解していくべきだし、私はこれからも自分が差別をする側にならないように、苦しんでいる人がいたらその人を守れるように、細心の注意を払って生きていく。