「趣味はなんですか?」と聞かれたときに、「料理です」と即答できない。
休日の自分を想像すれば1番に浮かんでくるのはキッチンに立つ姿。外食以外の食事は基本的に家で済ませていて、どんなに時間がなくてもめんどうでもコンビニに頼ることはほとんど無い。家の冷蔵庫を開ければ休みの日に作った残り物か、生野菜や卵が常備されている。
それでも「趣味は料理です」だとすんなり言えない。

料理は私にとって楽しみいうより、いきなり湧いてくる衝動としてある。週に1、2回「よし作るぞ」と自然に思い立つタイミングがある。そのタイミングを逃さないように食べたいと思ったものをその時の気分で決める。中華か和食か洋食か、肉か魚か野菜か。それに合う副菜や主食をバランスよく頭の中で組み合わせる。余ってしまうであろう食材をどうすればあと一品作れるかまで考える。そうして必要な計算を終えたら、材料を調達しにスーパーへ向かう。

食材調達のスーパーで他人の暮らしに思いを馳せてみる

料理に取り掛かる前の材料調達は一旦外に出なければいけないので少しめんどくさいが、スーパーでの材料調達はずっと家にいては分からないことを知れる大切な時間でもある。スーパーには人の生活が溢れている。人が持ち歩くカゴの中にはそれぞれの生活が詰まっている。

レジで前後に並んでいる人たちのカゴと自分のを見比べて、スーパーのレジで前後になったというだけの他人の生活に思いを巡らせる。カゴに放り込まれている食材の量でその人が何人で暮らしているのかくらいはすぐに分かってしまう。お惣菜が多いカゴからは料理をする時間がないくらい忙しい人なんだなとか、カゴの1番上に食パンが乗っていると朝食はパン派なんだなとかといったふうに日々の生活が見えてくるし、カレールウの箱と肉と野菜だけというあからさまなカゴの中身からは単純で真っ直ぐかもしれないその人の性格のようなものが表れている。

人の日常や内面が垣間見えるカゴの中身を、悪いなぁと思いながら盗み見してしまう。人の数だけ生活があるのだなと実感することは家の中ではできないことだなと、面倒な材料調達の面白さを味わう。

始めてしまえば頭を空っぽにしてゴールまで駆け抜ける

そうして手に入れた食材をスーパーでの配置を思い出しながら棚や冷蔵庫にしまう。ここからは誰かの生活ではなく、目の前の食材と自分とに向き合う時間が一気に始まる。使う食材をテーブルの上に並べて、焼いたり煮込んだりといった手が空く時間を考えながら正しい順番で同時に何品か作る。料理に合わせて同じ食材でも切り方を変えたり、必要があれば水につけたり、下味をつけて適当な時間寝かせたりする。材料の準備が整ったら左のコンロでは食材を炒めながら、右のコンロでは鍋で煮込む。焦げないように火の調節をしながら、適切なタイミングで味付けをする。

手元は休みなく動く一方、頭の中は目の前の料理にのみ集中していてほとんど動いていないに近い。畳み掛ける工程を完成というゴールにだけ向かって、ほとんど頭を空っぽにして走り抜ける。空腹を満たすために料理をするのではなく、この、ある意味瞑想に近い状態になるために料理をしているのかもしれないとも思う。

短時間で数種類のものを作るときはこの状態を保てるが、一品でなん時間もかかる手の込んだ煮込み料理(ビーフシチューとか魯肉飯とか)だと瞑想状態を保てない。手の込んだ料理を作っているとき、時間をかければかけるほど、手間をかければかけるほど、丁寧にすればするほど、料理は大抵それらに比例して美味しくなってくれるから本当にありがたいな、人もみんなそうであればいいのになぁとか余計なことを考え始めてしまうので、私は短時間に恐ろしい種類のものや、とんでもなく工程が多い面倒なものを作ることが多い。

「ちゃんと生きている」という実感を得ることが料理をする目的

そうして出来上がった料理はすぐにタッパーに詰められ、ラップでぐるぐる巻きにされ、冷蔵庫や冷凍庫にしまわれてしまう。作ることで心だけでなく体も満足してしまい、結局食欲まで満たされてしまうから。作ったものを全く消費することができず友人にほとんど食べてもらうことすらある。

それでもちゃんと自分の手で作った料理で冷蔵庫がギュウギュウになっている光景を見た瞬間、ものすごい安心感に包まれる。私はちゃんと生きているんだなと安心できる。夜寝れなくても、朝起きれなくても、部屋が散らかっていても、1日中ずっとパジャマでも。料理さえ丁寧に作ることができたら、その日は生きることに成功したと感じられる。調理器具の洗い物を終える頃には延々と頭の中に居座っていた悩みみたいなものもいなくなって、心も体も幸せな疲労感だけ満たされている。

「趣味はなんですか?」と聞かれたときに「料理です」と真っ先に答えないのは、料理は趣味ではなく、私の生活そのものの一部だからなのかなと思う。余暇に楽しむものというより、生きていく上で必要な頭を空っぽにする時間を料理を通して自然と行えるから。作るという行為は、生きようとしている気持ちの表れでもあるから。
食べることが目的でない、食べ物を作るという行為が、私にとって欠けてはいけない生活の一部であるように感じた。