#伊藤詩織さんを支持します
このハッシュタグを前に、私はツイートボタンを押せずにいた。もちろん、支持をしている。だけど何かを語ろうとぽかっと開けた口はブラックホールのように真っ暗で、何も、ない。
あの時の私には、語れるものが何もなかった。
性的被害を受けたことがない。なぜか、枠からはじかれた気分だった
公共交通機関の使用を最小限にしているのも相まってなのか、今まで性的に不快な出来事を体験したことがない。または、全く覚えていない。忘れてしまうほどの事だったのかもしれないし、自覚がなかっただけかもしれない。
だから、Twitterで「女性の大半は痴漢の経験がある、ハラスメントを受けたことがある」というようなツイートを見かけた私はパチンと枠からはじかれたようだった。心はぶらんと宙に浮いた。調べてみたところ、女性の約7割がその経験をしているらしい。まさか自分が少数派に当てはまるなんて思っていなかった。被害を受けて傷ついている女性がたくさんいる中、何も知らず生きている自分に罪悪感を覚えた。私みたいな人が多数派になればいいのにな、と思う。
さて、ここまで読んで「なーんだ、痴漢されたことない人いるじゃん。みんな経験あるとか、嘘じゃん」と揚げ足取ろうとする人がいたら、それは絶対に許せない!経験ある子は大勢いる!論点をずらさないで!そして、引き続き私のエッセイ読んで!
当事者じゃなくてごめんなさい。共感できないことに負い目を感じた
話を戻すけど、私にとって、液晶に並ぶその”多数派の意見”は絵空事のようだった。
実際に会ったことのある知人もそうだと語っているのに、まるで遠い世界を覗いているようだった。これは現実だとわかっているのに、なぜだろう。同じ女性なのに、理解はできても共感ができないことが辛かった。これは私が当事者でないから?そんなことないはずだ。
だけど、どうしようもなく、負い目を感じてしまう。語れない自分に何ができるのかがわからなかった。語るものがない私が何を言ったとて、という虚しさがあった。辛さを共有できなくてごめんね、という気持ちがチクチク胸を刺した。
「生の声」により質量を持ち、ようやく手に取れた被害の実態
さて、そんな気持ちを抱えていることをこのエッセイを書く前に吐露した。そして聞いた「みんなは痴漢の経験ある?」と。そしたらどうだろう。その場にいたほぼ全員の女子が痴漢にまつわる経験を話してくれたのだ。「自分は経験はないけど、学校の友達が経験あるって言ってた」「あの電車の〇両目は乗らないほうがいいよって聞いた」などなど。想像以上に身近だった。びっくりした。そこで初めて、絵空事だった出来事が手に取れるようになった。つるつると液晶を流れていった言葉たちが初めて浮き出てきた。ああ、私、理解した”気”でいたんだな。ようやく、理解できた。
そこで実感した。
身近な人の、”生の声”の重さを。
液晶を通してだと伝わらない、”熱を持った言葉”の大切さを。
やっと言える、#伊藤詩織さんを支持します
そして私なりに考えた。私自身は当事者じゃないから自分の体験は語れない。だけど辛い思いをしたことがある人はたくさんいるんだよ、ってまずは身近な人に少しずつ伝えていきたい。多分私の周りでは無関心の人も多いだろうから、少しずつ関心を持ってもらいたい。そして理解者を増やしていきたい。
拡散というのはフォロワーが多い人から発せられるものではなく、初めは小さなコミュニティからどんどん広がっていくことが多いそうだ。以前読んだ本にそう書いてあった。だから私はそのスタイルでいこう。うーん、どうやって話振っていこうかな、いっぱい考えてみよう。いっぱい話してみよう。
最後に、このエッセイを書くにあたって、伊藤詩織さんの「Black Box」を拝読した。語れなかったのは、当事者でないから、だけじゃなかった。ちゃんと知らなかった、のだ。当事者じゃないからと、情報にすらアクセスしなかった自分を恥じた。そう、知れば語れるのだ。
今の司法の問題点、性被害の現実、そして痴漢の話をしてくれた仲間の生の声。これらを知った私は、今度こそハッキリと言います。
私は伊藤詩織さんを支持します。