さっきの私はもう違う私。出会う人で私は毎分毎秒変わっていく

私を形作るもののほとんどは、出会った人でできているのだ、とよく思う。「私」という人間は、いつも同じ形では存在しない。2年前に言っていたこと、考えていたことときっと私は正反対のことばかりしているし、言っている。一貫性なんて5分経ったらゼロクリアだ。毎日新しいことを知る。毎日違うテーマについて考える。1週間前の私にすら、私は自信を持てない。1ヶ月前に書いた文章の一部にいつも首をひねる。毎分毎秒、私は違う人間だ。

「ほくちゃんって一貫性ないよね」と言ったのは前の恋人だった。前の前の恋人には「論理性に欠ける」と言われた。私からしたらその場その場の私は、相手に真摯に向き合っているのだが、「話しているうちに」全然別の思いつきが浮かんできて、突然別の結論に飛んだりする私のことが耐えられなかったらしい。一言言えばよかったのだろうか。

「ごめん、今から5分後、私ワンチャン別人だから」

って。それは意味わかんなすぎるか。

でも5分どころじゃなく、人間ってびっくりするくらい矛盾してない?ダイエット中に「ご飯食べたい」って言っても一貫性がないぞお前!なんて怒られないし、いつもご飯食べたい人がちょっと調子悪くて「ご飯今日少なめで」って言っても怒られないじゃん。一貫性ないのに。ご飯ばっかだな。お腹すいた。

このままご飯の話に行きたいくらい私は一貫性がないのだけれど、一旦我慢して一貫性の話を続けよう。

吸収し変わっていく愛すべき矛盾が、私を作り上げている

私はフェミニズムを学んでいる。でも男性に奢られている友達を見ていいなぁ、と思ったりする。それってそんな悪いことなの?私はいつも「コミュニケーション不足が恋人関係を壊すのだ!!」と付き合ってきた人に言いがちだったけど、たくさんコミュニケーション不足もやらかした。
超、反省はしてるけど、別に別れ際に責められるいわれはなくないですか?最近、メンタルをうまく調節できるようになってきた自分のことが大好きで仕方ないけど、一人でメンタル保てすぎちゃうと男の人から好かれないかな?と思ったりするし、時々会う推しの人間のことを神だなぁと思って拝む日もあれば、推しのこと考えない日もあるし、10回に1回くらいは性的な目で見てる日もあるんだと思う。本当は3回に1回かも。

私はいつも考えると同時に矛盾して、感じると同時に矛盾して、話すと同時に矛盾して、大きく矛盾したり小さく矛盾したりする。昨日好きだったものが今日嫌いで、今日刺さらなかった曲で明日には泣いちゃうかもしれない。

それが人間なんじゃないの?主張が一貫していることには価値があると思う。そうだよ。なにも価値がないなんて一言も言ってない。でも、乾いたスポンジみたいに色々なことを吸収しては変わっていく私を、「一貫性がない」の一言で片付けるなんて、もしかすると君たち結構つまんないことしてたんじゃないの、とも思うのだ。

それからついでに小声で言っとくと、君たちだってちょいちょい矛盾してるんだからね、ふふふ。私は気にしないしそこに価値を置かないからあんまり(その場での論理矛盾とか以外は)指摘しなかった気がするけどね、ふふふ。
でもそれを矛盾と称してしまう私も、彼らが「変わっていく」人間だってことをちゃんと理解できていないみたいだ。自分は変わっていくくせに、人が変わっていくことを認識できていない、これもまた一貫性のなさ。

「一貫性のなさ」は常に新しい体験の扉を開いてくれる大切な長所

とはいえ、私の一貫性のなさは人からの影響されやすさの現れでもある。文章書き始めたのも、写真撮り始めたのも、声優に少しだけ詳しいのも、たまにピアノ弾き語りをやったりするのも、そう、今生まれて初めて芋焼酎を飲んでるのだって、誰かの影響だ。大好きだった人たちから、大好きな人まで。でも影響を受けて新しい体験ができるならいいじゃない?結構得してるんじゃない?と思いながら、自分の「一貫性のなさ」を大切にしている。ばかめ。私は君が短所として指摘したところを長所として大事にしてるぞ。

ほら、文章書いてるうちに呪いが祝福に変わったじゃん。やっぱすごいな、文章って。