みなさん、あの悲劇を二度と繰り返してはなりません。戦争はやめましょう。

なんて言葉のどこに戦争を止める力があるのか私にはさっぱりわからないし、
この呼びかけられた「みなさん」の中におそらく戦争を動かす人間は含まれない。
8月15日の中継の、どこかの国の長を見ながら、
なぜだか涙が止まらなくなったのは高校3年の夏だった。

劇的ななにかに戦争の本質を求めるのは違う気がするのは私だけ?

そもそも、「戦争は悲劇」だからやってはいけないのか?
確かに、戦争がもたらした理不尽な死、怪我の苦しみ、愛する人との別れは悲劇だ。
でも悲劇、劇、劇的ななにかに戦争の本質を求めるのは違う気がするのは私だけだろうか。

それから私は大学に進学した。学んだのは、どうやってメディアと向き合うか。そしてひそかに、「1年に1回は戦争を描いた作品に向き合う」ことを自分の学びのルールにした。
戦争をドラマのように捉えることに違和感を覚える反面、私が触れてきた戦争はほとんどフィクションの中にあった。そして私がこの先戦争の記憶を伝えていく術もフィクションになるだろう。4年間かけて、自分なりに考えてみることにした。

いろんな視点の戦争作品を見て、祖母に尋ねてみて、気付いたこと

いろんな時代の、いろんな視点の戦争作品を見た。
太平洋戦争、イラク戦争、第1次世界大戦。銃後、戦場、現代。この100年そこらで人間はいくつの戦争をしてきたかという事実だけでもう圧倒されてしまう。
ひとつひとつ挙げることはしないけれど、死は人を「かわいそう」という気持ちにさせる。

物語を作っているのだから、見る人が感情移入するのは大切なことだけれど、なんというかこう、そこにフォーカスしすぎることで見落としているものがあるのではないのか、ということに段々気がついてきた。

見落としているものは私自身にもあった。
たくさんの戦争作品に触れたり、平和学習で被爆体験やシベリア抑留体験を聞いてきたりした一方で、私は自分の祖父母の体験を聞いてくることはしなかった。彼らが生き延びたことで私は今ここにいるのに。そして祖父母から、孫になにかを語ってくることもなかった。

それでもたった1度だけ、祖母に戦争のときの話を尋ねてみたことがある。
大学2年になる春休み、祖母と2人で神戸を旅した。長い時間祖母と二人きりになったのは初めてで、東京から向かう新幹線の中で思い切って聞いてみた。
物が少なくて大変だったこと、川向うの街が燃えていたこと、ラジオで終戦を知ったこと。
今まで私がいろいろな作品で見てきた出来事をやはり祖母も体験していた。

一方で、私はそんなに大変だったほうじゃないからと、祖母はあまり語らなかった。というより「孫に語り継ぐ戦争体験」的なものを、私が勝手に期待してしまっていたのかもしれない。
1940年代の日本に生きていたことと、戦争で「悲劇的な」経験をしていることはイコールではない。当事者ではない私にはその視点が欠けていたし、なんとかして戦争を語り継がねばならないという焦燥感に駆られすぎていた。

戦争をいかに記憶していくことができるのか。語り継ぐ人になりたい

半ば1人勝手に戦争に向き合おうとしてきた4年間、締めくくりの卒業論文のテーマに、私は井上ひさし「父と暮せば」を選んだ。戦争の記憶を閉ざした女性が、亡き父との対話を通じて辛い記憶を乗り越えていく物語だ。
被爆当事者ではない井上ひさしが徹底的な調査の上で書き上げたのは原爆の悲劇だけではない。戦争をいかにして記憶していくことができるのか、その事自体を物語に託している。

戦没者はその体験を語ることはできない。それは戦争がもたらす大きな悲劇かもしれないが、それが戦争の全てではない。生き残った人が生きること、科学的に研究すること、記録や遺品をきちんと保存すること、そして事実を知ろうとすること。それだけで戦争の記憶は受け継がれていく。

「なぜ戦争をやってはいけないのか?」
世界中のあらゆる考えの人を説得できるほどの立派な意見はわたしにはまだ思いつかない。
それでもやっぱり、私は死にたくないし殺したくない。
何かのために生活が、命が犠牲になるなんて許されない。
戦争による死の記録も、生き抜いた体験も、私にそう思わせてくれた。

私は戦争を語り継げる人になりたい。それは戦争が悲劇的だからではない。
戦争が何をもたらすのか、自分が学びそして考えたことを、他者に伝えることで
なぜ戦争をやってはいけないのか考える人が増えたらいいなと、
23歳の夏、そう思っている。