この夏、私は一度も脇毛を剃っていない。一度もだ。
脇毛だけじゃない、腕の毛も、足の毛も。
すごく見た目に気を使うタイプじゃないけれど、それでもそれなりに毛が生えていることをだらしないと内面化して、手入れをしてきた。

小学5年生の夏。いつしか私は、おしゃれ番長たちの考えに染まった

はじめて、毛があることを悪だと感じたのは、小学生の頃に「毛深い」論争の洗礼を受けたときである。
小学5年生ごろだっただろうか。扇風機しかない夏の教室の気だるげな空気の中で、机の上で頭を横にしながら、自分の腕をみつめる子どもたち。

「あたし、毛深いんだよねー。」お姉ちゃんがいて、クラスでも一目置かれている子が口を開いた。
「えっ、あたしの方が毛深いよ。ほら、みてここ。」ファッション雑誌を読み、ギャル文字を巧みに書くおしゃれ番長的生徒が続く。
「どれどれ。うわっ、ほんとだ、ここ毛深いね」
「イヤだから、剃りたいんだけどね。ママがまだだめって」
「うそー!わたし今度やってもらうよー!」
そういったおしゃれな子たちとたまたま幼ななじみだった私は、毛深いとはどういうことだろうか、とその子の腕をみた。たしかに、毛の間隔が短い気がする。そして、毛の間隔が短いこと、毛があることはよくないことなんだろうと彼女たちの会話の調子から学んだ。

大人になるにつれ、毛を剃ることが当たり前になったけど…

小学校高学年では、自分に身に覚えのない毛がたくさんあらわれて戸惑うこともあった。母親にしかないんだとおもっていた、脇の毛や陰部の毛が意思に反して、こんにちはと挨拶してくる。これらの毛に対して、
「〇〇も大人になったね」といわれるのもなんだか恥ずかしくて、やめてほしかった。自分の中からも毛への嫌悪感が生まれた。

中学にあがると、剃毛は当たり前の出来事になった。体操着に着替える時、みんなの脇はつるつるだったし、指の毛まできれいさっぱりいなくなっていた。バスケ部の生徒が、脇毛を剃り忘れた時に、お互いの脇毛を見せ合って、「やばい!」「やばい!」と叫び合っていた姿が印象に残っている。

大学では、もはや「剃る」という言葉が出ないほど、習慣化されたものになった。習慣だから、それをしている時間がもったいないということで、脱毛サロンに通う人も多かったような気がする。電車広告のターゲット層になったわけだ。

大学で学問の戸を叩くと、少しずつこの「毛を剃る」という行為が不均衡なものであることがわかってきた。ずっと毛を剃ることがめんどくさいなあと思っていた自分にとっては、言い訳をできる最適なロジックでもあった。

毛を剃る意味って何?本当は、「そのまま」でいたい

毎日世の中が変化をする中で、男の人が髭以外の毛を剃ることも増えてきてるみたいだ。きっと「清潔感ある見た目」のレベルがもう一段あがったのだろう。とても喜ばしい変化だと思う。一方で、毛を剃る意味って何?と問い直したい。

毛を剃るたびに、なんで毛ははえてきてるのだろうか?と疑問に思う。
毛には生えてきた理由があるだろうし、それを剃ることって自然の摂理に反してるじゃん!!!!!!!!!!!!!!って思う。
だから、毛は剃らずに残してあげたい、本当は。
毛がない=美しいの図式が壊れてほしい、早く。

私がコロナの状況下でステイホームする中、脇毛は剃られて排水溝に流され、ゴミとして処理され、海に埋められることがなかった。脇毛はステイホームしている、私の脇の下で。

もしかして、もしかして、今って脇毛にとっては最高の契機なんじゃないかと思う。どうかアフターコロナの神様、脇毛の願いを叶えてやってください。