昔、付き合っていた恋人に「吸血鬼っぽいよね」と言われた。生きた人間を羨む冷えた吸血鬼、そんな風に私は見えてたのだと思う。言い得て妙だと思った。私はいつも恋人を自分の腕の中に囲い込み、吸血鬼の如く吸いつくそうとする。
恋人の才能や価値観や良いところを吸収したかった
どの恋愛も、はじまりはこちらからの憧れだった。学年一のイケメンとか運動部のキャプテンとかそういう、本の帯に書けそうな憧れでは無くて、私の憧れには常に自己肯定感の低さがセットだった。私が表現出来ないことをスラスラと言葉にする彼が、私が我慢してしまう涙をポロポロとこぼす彼女が、私はとても羨ましかった。尊敬していた。気が付けば恋をしていた。
「吸血鬼っぽいよね」と言った後に恋人は悲しそうな顔で、「でも脆くて弱い」と付け足した。私は常に飢えていた。もちろん幸せな瞬間はたくさんあった。けれども満たされることはなかったし、楽しくなかった。そりゃそうだ、恋人の才能や価値観や良いところを吸収しようとする分だけ、私の心はどんどん膨らみ貪欲になる。
憧れていた存在になれたかもしれないと錯覚するけれど、自己肯定感が上がったように錯覚するけれど、いくら吸おうとも吸血鬼が人間になることは無い。相手を吸収することで頭がいっぱいいっぱいな自己中心的な吸血鬼と、脆い吸血鬼を憐れんで自ら首筋をさらけ出す人とは、対等では無かった。"あなたになりたい"と祈りながらしがみつく私と、そんな私に普通の恋愛関係を望む恋人との間に、楽しい瞬間は一体どのくらいある?
タイトルの答えは、"恋愛"と"羨望"は混ぜるな危険
タイトルの答えをここで出すとしたら、"恋愛"と"羨望"は混ぜるな危険である。めちゃめちゃ危険。心の根底に一度焼き付いてしまった"あなたになりたい"という強い羨望は、簡単には消えない。一度混ざってしまった"恋愛"と"羨望"を綺麗に分けることは不可能だ。
恋人が私を嫌っても私はずっと恋人を人として好きなままで、上書き保存なんて出来ずに私は全てを平等に引きずっている。
吸血鬼的な恋愛をしている時間を私は「文筆フィーバータイム」と心の中で呼んでいる。憧れから始まる恋愛は、質の高い短歌や小説が何故か脳内で溢れてくるのだ。脆くて弱い吸血鬼は人間にはなれなかったけれど、代わりにたくさんの事を恋人から学んで感受性豊かな吸血鬼になった。あなたにはなれなかったけれど、あなたのおかげで書けたものが沢山あるよ、いつかお礼を言いたい。
肯定し合えて、笑い合える恋がいい
次に誰かを好きになるなら楽しい恋がいい、と思う。肯定し合えて、笑い合える恋が。恋愛に正解も不正解も無いと私は思うが、どうせなら胸を張って「正解だ」と言える恋がいい。本当は、もっと軽やかに恋がしたい。