私は戦争が嫌いだ。
幼い頃、祖父の家で見た『火垂るの墓』が怖かったこと、他にも信じられない描写が怖いこと、信じられない光景を信じたくないこと。そして、それが遥か遠くに思えていたこと。

私は映画やドラマを観たり、本を読んだりすることが好きだ。けれど、戦争については避けてきた。自分が苦しくなること、何が真実なのかよくわからないこと、人間の悪が気持ち悪く、社会を生きにくくすることなど、たくさんの要因があると思う。
けれど、とにかく怖いのだ。

だから「今年は終戦75年目だ」など聞くと、不意に恐怖に襲われるし「なんて最近のことなんだろう」と不思議な気持ちになる。それぐらい、どこか物語の様に遠くに感じてしまう。

けれど、決定的に戦争が他人事ではないと、はっきりしたのは高校2年生、お墓参りの時だ。

もう一つのお墓に眠る彼は何年も前に存在し、そして亡くなった

鳥取県にある母方のお墓には、何百年前の字も読めないくらい古い墓石と二つ立派な墓石が立っている。昔からお墓参りが苦手で、私は下や遠くを見てお墓と目を合わせないようにしていた。けれどその日は、なんとなくぼんやりと墓石を見ていた。

一つ目は4年前、ひいおばあちゃんも入った墓石で、他にも4人ほど名前が刻まれている。けれど、もう一つは、先程と同じ大きさにも関わらず、一人の名前だけしか刻まれていない

「陸軍一等兵OO 二十一歳 戦死」と。
私に彼の血は入ってない。けれど、私と彼には同じ血が流れている。
私には衝撃だった。21歳という文字も、そこに書かれている言葉も。
彼の育った町(=私の育った町)は田舎だ。“戦争”という言葉が親戚の話に出てくることも、町を見て戦争が頭に浮かぶこともない。穏やかで静かな場所だ。そして、今も太陽が照っていて、緑は綺麗に光っている。

けれども、一つのお墓に眠っている彼は、そこに何年も前に存在し、そして亡くなったのだ、21歳という若さで。
私は、出会ったこともないお墓の彼を、その瞬間時が止まったかのようにそこに意識した。
彼は一体、どんな人だったのだろうか。彼はどのように生きたのだろうか。彼はどうして死んだのだろうか。彼の骨は、このお墓の下に埋まっているのだろうか。

私がいるのは、体を張って家族を守るために戦った「彼ら」のおかげ

私は今年、21歳になりお墓の彼と同い年になった。
高校2年生のあの頃から私は、彼について知りたくて、でも知れなくて、だからこそ彼がいた戦争に目を向けるようになった。
広島平和記念資料館や大和ミュージアム、大久野島、靖国神社にある遊就館と…。

私は今、彼らのおかげでここにいられるということを知っている。彼らとは、体を張って家族を守るために戦った“彼ら”である。

けれど社会に出て沢山の情報に出会って、彼の亡くなった戦争が今、無駄だったのではないかと思ってしまう時がある。
私が学校で習った戦争はあまりにきれいだった。日本政府は純白だった。けれど、本当の終戦が9月2日であるように、学校で習ったことと社会に溢れる解釈はあまりに違う時がある。 

怖くなかっただろうか。
私は『ダンケルク』という映画を正直、ハリースタイルズを観たいがために観に行った。
そして、びっくりして心臓が止まるかと思った。
目に見えるのだ、魚雷が(=自分の死が)海を渡って近づいてきていることが。わかるのだ。あれがこの船についた時、自分は死ぬのだと。でも、どうすることもできないのだ。逃げることも隠れることもできない。ただ見ることしかできない。
今でも考えるだけで私は何も考えられず、どうしたらいいのかわからない。

どうして多くの人は戦争をしたくないのに戦争をするのか。戦争なんて「しない」って思えばしなくて済むのに。そう考えていた。
 でも今の私は分かっている。一般国民がいくら戦争をしたくなくても、国のトップが決めてしまえば、私たちにはどうしようもないことを。
そして一般国民の彼らができる唯一の抵抗手段は来るモノから家族を守る事。それ以外他にないのだ。

今も戦争は起きている。無関心ではなく、理解することから始めよう

私はこのことを考えると、自分の無力さが怖くなる。だって、今の社会もそうだから。
政府が決めてしまえば、私たちにはどうすることもできない。魚雷と一緒だ。

でも、ここで諦めてしまったり「今はもう戦争は起きないんだから」なんて楽観視していてはだめだと思う。だって、今でも戦争は起きているし、これからも起きないとは言い切れないからだ。

私たち国民には手の及ばないことがたくさんある。それを私たちは今、身をもって知っている。

今も周りを見て欲しい。今戦争している国は、国民が悪いのか。今あなたが嫌っている国は、国民みんなが悪いのか。

私たち国民が、お互いに理解を促さないといけない。無関心を装うのではなく。
国が違えど、人として国を超えてお互いの心は理解できるはずだ。
私はそう信じている。