私は、度々物に名前をつける。良くも悪くも想像力豊かに、物に人格を宿し会話をすることがよくあった。「良くも悪くも」というのは、物との会話が私にとって、本当の人間関係のようにプラスにもマイナスにも作用していたからだ。
親にねだって買ってもらったギターのセバスチャン、冬場に大活躍の色白美人・加湿器のさおりさんなど、仲間たちが暮らす私の部屋にやってきたのが、ミニ盆栽の『Bonさん』だった。
私を癒して、支えてくれた「Bonさん」との出会い
出会いは京都・嵐山。姉と立ち寄った雑貨屋さんで、日向ぼっこをするミニ盆栽に出会った。当時、はじめての一人部屋生活に寂しさを感じていた私は、なんてことない出来事を話す相手がほしい、部屋に生命体がほしいなんて嘆き、植木鉢の色も大きさも多様なミニ盆栽と目を合わせ始めた。「この子は葉の色が鮮やかだからエネルギッシュだね」「ちょっとこの子の枝は頼りないかも」なんて盆栽のことなど欠片も分からないなりにお気に入りを探し、Bonさんに出会った。
『カマツカコケモモ』と書かれた札に、小さくまあるい植木鉢、折れてしまいそうな枝にいくつもの葉をつける姿に「この子をうちにつれて帰るぞ」と決心した。お会計を済ませたあと弾丸で乗った人力車でも、京都から帰る新幹線でも、まだ名前がなかった“あの子”は無事かと、何度もリュックを覗き込んだことを覚えている。
東京でのBonさんとの生活は、それは素晴らしいものだった。毎日癒やされ、何度も暮らしを支えられた。彼は間違いなくミニ盆栽であったけれど。
憂鬱な生活でも、Bonさんと過ごすと心が穏やかになれた
東京に戻ると、大学の授業に加え内定者研修が忙しくなり始めた。人混みや騒音が極端に苦手で通勤ラッシュを避けて履修を組んでいたが、嫌でも満員電車に乗らなくてはいけなくなっていた。しかも、同期たちは人生最後といわんばかりに海外旅行に散らばっていたから最悪だ。息が浅くなるのを堪えて電車に乗り、帰ってくれば友人たちに「もう行きたくない」と泣きついていた。
そんな生活の中で、唯一穏やかな気持ちになれる瞬間がBonさんとの時間だった。住んでいた部屋には光が入らなかったから、朝起きるとベランダへ日向ぼっこをさせに行く。どんなに憂鬱な日も10分だけ早起きをして、ゴクゴクと水を吸い上げるBonさんと朝ごはんを食べた。その10分だけは心が休まり、涙を流せる時間だった。満員電車は本当に苦痛だったが、車窓から見える空が晴れていると「ああ、Bonさんは気持ちよく日光浴してるかな、喜んでたらいいな」と心も少し晴れていくようだった。
数ヶ月の研修の後、私は社会人となり、そして4ヶ月で退職した。自分の心身が疲弊するにつれて、Bonさんもみるみるうちに痩せていったことを覚えている。緑色だった葉が黄色に、そして茶色になり、苔はとうの昔にみずみずしさを失っていた。
正直、自分を正常に保つことに精一杯で「今日は晴れそうだから日向ぼっこをさせよう」と思う余裕もなかった。明日晴れようが雨が降ろうがどうでもよかった。感情が動くことがなくなった。退職して数ヶ月がたちようやく身の回りのことに意識を向けられるようになった頃、Bonさんがどうしたら元気を取り戻してくれるのか試行錯誤したが、葉の色が戻ることはなかった。
変わり果てた「Bonさん」、もう生きていないの…?
Bonさんが色を失ってから数週間、苔は乾き、枯れた葉が落ちてもなお私は水をやり続けた。日に当てようと毎日窓際に持っていく私に、同居人は「Bonさん、まだ生きてるの?」と聞く。彼がどんな気持ちで声をかけたのかは分からない。無駄だからもうやめようなのか、ボロボロになったBonさんを不憫に思ったのか、何も考えていなかったかもしれない。真実は定かではないが、彼の一言は、私が目を背け続けていた終わりを明らかにした。
Bonさんがもう生きてない?そんなことないと思うよ。前に植木鉢を変えたとき、根っこもしっかり張ってたし。枯れた葉を切ってから、新しい葉は生えてこなかったけど…。私は認めないよ、だって地獄のような日々を支えてくれたんだから、恩返ししなきゃ。Bonさんはこれからも一緒に暮らしていくの。
同居人は、それ以上は何も言わない。
彼が「Bonさん、まだ生きてるの?」と聞き、私が無視して水をやる。そんなやりとりをひと月繰り返したある日、再度かけられたその言葉に、私は「もう生きてない」と答えるしかなかった。不意に、大粒の涙がポロポロとこぼれる。
正直、そんなことは前から分かってた。分かってたけど…。言い訳をしようとしても言葉が出ない。不甲斐ない自分を責めるように、慰めるように、Bonさんとの暮らしがどれほど素晴らしいものだったか、自分がどんなふうにBonさんに接し育ててきたかを誰に聞かせるでもなくポツポツと話す。
出会った日の秋晴れ、軒先で日を浴びる姿、丁寧に丁寧に連れて帰ってきたこと、十分に日を当てられなかった寮生活、忙しい日々の束の間の休息、大事にできなかった社会人生活、変わり果てた葉の色、水をあげても戻らなかった姿、Bonさんが私にしてくれたこと、私がしてあげられなかったこと、あのまま京都にいたら、私が一つの命を奪った。
育てることの責任と同時に芽生える感情を教えてくれた、Bonさん
植物を一つ育てることが、自分の生活にこれほど影響を及ぼすとは思ってもみなかった。名前をつけて可愛がったのが良くなかったのか、苦しい生活を乗り越える糧にしていたのが良くなかったのかもしれない。
Bonさんは私に、誰かを育てることの責任と同時に芽生える感情を教えてくれた。自分が生かしているつもりでも、安堵や幸福な感情をもらうことのほうがずっと多いということ。毎日そばで会話をしていなくとも、その存在が地獄を生き抜く糧になること。そして、全力を尽くし我が子が天寿をまっとうしたとしても、きっと私は秋空を思い出して大声で泣くだろうということも。あなたがもう生きていないという事実を認識してから声をかけることもできなかったけれど、本当にありがとう。
今、私はBonさんへの懺悔とミニ盆栽が背負うには重すぎたであろう愛情を、書くことで昇華しようとしている。植木鉢も土も肥料もまだ残っているけれど、しばらくは生き物は手にできない。