祖母が二歳半の話だ。幼い祖母は、おもちゃを与えて貰えなかったので、毎日石ころ並べに夢中になっていた。その日も暖かい陽射しの中で、一人で身体を丸めて熱心に並べていた。刹那、身体が宙に浮き、誰かの脇腹にひょいっと身体を抱えられた。顔を上げてみると、近所のおばちゃんが焦った顔をして必死に走り出したのだという。暫くすると、後ろで大きな爆破音が鳴り響いた。空襲である。
もしその時、そのまま祖母が石ころ並べに夢中になっていて、誰も助けていなかったら。きっと今、私はここにいないであろう。
地元沖縄で、平和学習をみっちりと叩き込まれてきた
私が小学校低学年の頃は、体育館に集まって沖縄戦体験者のおばあが涙を浮かべながら平和講演会をしてくれた。暑い暑い体育館の中で、子供ながらに、生々しい話に鳥肌を立て、想像を膨らませては、戦争の恐ろしさを身に染み込ませた。
中学生、高校生では、ひめゆりの塔や集団自決が起こったチビチリガマに訪れては、毎回平和学習をみっちりと叩き込まれた。米軍基地と隣接した環境で、下校中に米兵の乗ったベルトコンベアーのような足をした、大きな車とすれ違う生活が普通である私たちにとって、余りにも「センソウ」というワードが、ボタンの掛け違いですぐにでも起きてしまうものという認識であった。部活中に上空で鳴り響くプロペラ音が妙に怖くて、不発弾報道のたびに巻き込まれたら死ぬのではないかという不安に駆られた。
大学で、平和学習の大きな地域差というものを実感した
東京の大学に進学し、ゼミ内でこれまでどういった平和教育を受けてきたのかについて話し合った時のことだ。私は大きな地域差というものを実感した。沖縄や、広島に修学旅行で行った一度きりしか平和学習に触れてこなかった、これまで学校でそういった平和学習を受けてこなかった、平和学習ってなに?という人が多数を占めていたのだ。
その時、米軍基地と隣り合わせで生活をしている私たちにとって、目に見える場所に「センソウ」というワードがいつも横に立っているからこそ、平和の尊さを意識していたことに気付いた。とても皮肉だ。頭の上でオスプレイが飛ばなきゃ、不発弾に怯えなきゃ、平和学習は、教育に値しない価値となってしまうのだろうか。これまで平和を願って、たった75年前に起きた事実と向き合ってきた私にとって、なんだか悔しくて、でもそれが現実なのだと知った。
センソウの恐ろしさを伝えられるのは、リアルを知らない私たち
残念ながら、75年が経った。幸運なことに、75年が経った。戦争を終えて、平和と呼ばれる日々が75年もの間続いた。1世紀は経っていなくとも、体験者は、この世からどんどん居なくなってきている。現に、戦争当時5歳だった私の祖父も昨年亡くなってしまった。
そんな現在、センソウの恐ろしさ、平和の尊さを伝えられるのは誰だろう。リアルを知らない私たちしかいないのだ。平和な今を生きる私たちは、日頃「空気が重くなる話」から目を背けたくなる。センソウなんて言葉、空気が重くなるに決まってる。映画の世界だけで十分、センソウなんてフィクション。平和な日常をこよなく愛しているがゆえに平和を当然そこにあるものと捉える。しかし、センソウは、75年前に実際に起きた現実であり、れっきとした事実である。リアルを所持しない私たちは、リアリティを常々、胸に刻む必要があり、そのためにもっと知る必要があるのだ。
おじい、おばあたちが伝えてきた「命どぅ宝」という言葉
今も水面下で動き続ける、憲法9条の改憲問題、辺野古移設問題、日韓関係問題に北朝鮮の核ミサイル開発実験。一歩踏み間違えてしまえば、センソウになり得てしまう破片が飛び散っている。そんな中で、沖縄で昔から言い伝えられているこの言葉を、どうか胸に留めておいて欲しい。
「命どぅ宝」という言葉だ。センソウを体験したおじい、おばあたちは、私たちにこう伝えてきた。命こそが宝なんだよ、命だけは何にも変えられん大事なものだわけ。忘れんでちょうだいね、と。