小学生の時、“平和学習”といって戦争について勉強した。
修学旅行では広島に行き、原爆ドームや広島平和記念資料館に行った。
展示されている人形や当時使っていた兵器などが解説文と一緒に展示されていて、想像しただけで怖くなった反面「こんなことが本当に日本で起こっていたのか」と頭の中が整理できていなかったような気がする。

中学生の時は、修学旅行で沖縄に行った。その時は、防空壕に入らせてもらった。
ただ暗く、怖かった記憶が残っている。
この時もやっぱり“この防空壕は生き延びるために作られ、使われていた”という事実を頭で、心で理解することができなかった。

不自由なく生きている時代。私は「戦争」を昔話のように思っていた

冒頭で小・中学生の時の話をしたけど、正直なところ28歳の今でも、戦争があった当時のことを勉強したり、想像してみても“戦争が起き、悲惨な出来事が日本で起きた事実”を自分ゴトにしたり、頭の整理をつけることができなかったりする。祖母や祖父から話を聞いても、どこか昔話のように聞こえてしまう。

不自由なく好きなものを食べ、おしゃれができて、行きたいところに行けるようになった日本しか知らないからなのか、そもそも私の想像力が足りてないだけなのか。

ただ、法律で“人を殺してはいけない”と決まっているのに、戦争になった途端そのルールがひっくり返るのはとても恐ろしいことだなと思った。「戦争なんかない方がいい」なんて、みんなが思っているはずなのに。なんで大の大人が、国同士が争うことになってしまったんだろうと、怖くなった。

極端な話「正義」って、本当はないのかもしれない…。

でも、よくよく考えてみると、それぞれがそれぞれの“正義”のためにやっていたことであって、その“正義”の定義が違えば、争いが起こってしまうのかもしれないと妙に腹落ちしてしまった自分もいる。

「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました。」という広告コピーにもあるように、桃太郎は正義のヒーローとして語られているけど、鬼のこどもから見ればただの“悪者”であり、人殺しであるように。

極端な話、“正義”なんてないのかもしれない。規模はかなり小さくなるが、このコロナ渦でも一人ひとりの正義がぶつかり、争いが起きている気がしている。

例えば、都会から地元に帰省してきた人の家に嫌がらせをしたり、車のナンバープレートが他県だったら執拗に煽ったりとか。

これはあくまで私の想像だけど、きっと嫌がらせをしている人も楽しい気持ちでそんなことをやっているわけではなくて「コロナウイルスに感染するのが怖いから」「今の時期に帰ってくるなんて、非常識だ」という、その人が思う“正しさ”のもと動いたのではないかなと思う。

ただそのやり方が過剰だったら、やられた方はかなり傷つくし「仕返ししてやりたい」と思うかもしれない。そうなれば争いのループがはまってしまう。

一人ひとり違うけど、共存できたら世界から戦争がなくなるのでは…?

戦争もそんな風に、最初は小さかった火種がどんどん大きくなった結果、国同士で争うことになったものではないのかなと思う。最初はただの口喧嘩だったのが、だんだんエスカレートして、手が出てしまうような感覚で、ふと振り返れば、人を巻き込み、国を巻き込んでいたのではないかと思う。

一人ひとりが持つ“正義”、それぞれの国が掲げる“正義”。
きっと生きている生活文化や宗教によっても変わってくるはず。

それが共存できた時、この世界から戦争がなくなるのではないか、というかなくなっていてほしいなと思ったりした。