「ジジジ、ジジジ」という音が、足元から聞こえて、下を見ると一匹のセミが裏返って、足をバタバタさせていた。

「ああ、もう夏が来てるんだなぁ」とぼんやり思った。こんな状況だからか、今年は季節が巡ることにどうしても疎くて、いつにも増してカレンダーをスキップしてきたような感覚がする。

セミが鳴きまくって死んでいく季節に「わたし」は生まれた

あの様子だと、セミはまもなく死ぬ。地上に出て何日目なのかはわからないけど、次第に静かになって動くこともやめて、その命を手放す。

夏になれば、そこら中に転がっている景色だ。草むらにもベランダにも、いつも歩くあの道にも、排水溝にも。どこで死んでたって、おかしくなくて、いちばんわたしが目にしてきた死骸は彼ら、セミかもしれない。

そして、たくさんのセミが地上に出て、鳴いて、鳴きまくって、ぶつかって、鳴いて、転がって、鳴いて、死んで、横たわる季節にわたしは生まれた。名前にも、その眩しい季節を取り込んで。

7歳の夏休みに毎晩のように悪夢を見て、涙が止まらなかった…

もうすぐ20年となる人生の総涙量を測ったら、その半分近くは7歳の夏休みに流されたものだと思う。小学校に入って初めての夏休み、家族旅行に出かけて、友達と遊んで、誕生日を祝ってもらって、たくさんの楽しい思い出に可愛がられながら、わたしは毎晩悪夢を見た。

シチュエーションは様々で、通りすがりの無差別殺人犯に襲われたり、街に放たれた謎の猛獣に追いかけられたりした。そして最後には、必ず大切な人が死んだ。私の視点は、ただ物事を冷淡に映すカメラみたいなもので、死んでいく人たちを前に声を上げることも、腕を伸ばすことも出来なかった。

自己防衛的な感覚で目を覚ますと、じわじわと恐怖と無力感が込み上げて来て、涙が何時間も止まらなかった。そんなことが毎晩続いた。

きっかけは、些細なことだったと思う。暇を持て余して、窓際でコロコロと変わる夏の空をただ見つめていた。美味しそうな入道雲は、次第に黒ずんで、意思を持った大粒の雨を降らせた。網戸にまとわりつく滴、ぬかるんでいく土、鼻につく雨と草の匂い、静かに存在を主張する虫たち。すべての現象が一気に私に迫って、悟らせた。

「ああ、わたしもこの一部なんだなぁ」「暴力的にコロコロと変わり、翻弄し、巡る自然の中で生死をくり返す生物の端くれに過ぎないのだなぁ」と。生き物は、死んだら雲の上にある天国に行くだとか、地下の黄泉の国に行くだとか、星になるだとか、土に還るだとかいわれて「上か下かどっちかにしてよ」と思っていたけど、それは死を経験してきた先人たちの優しい教えだったんだ。そう考えないと寂しくて、怖くて堪らないよって。現に堪らなくなった私は、夢の中で喪失し続けた。

死の概念がぽつんと落ちてきた7歳の夏休みから毎年、誕生日を迎えると「この歳まで生きてると思わなかったなぁ」と半ば感動に近い気持ちを覚える。

いつ死ぬかわからないから、息をしている「今」を愛そう

生まれてから20年、7,305日目の私は、一体何日目のセミなんだろうか。

もしかしたら、明日が最後の日なのかもしれない。
生きものは必ず死ぬ。
けれど、いつ死ぬかはわからない。

わたしは、その死の不確実性をいつだって恐れて、愛して、抱きしめていたい。
そして、今この瞬間も近くで、遠くで、世界中で、宇宙で、生きているもの全てが、息をして、瞬きしてる事実が何よりも好きだ。

今日も生きてるから、生きていこう、鳴いたり、喚いたりしながら。
静かになんて、生きてやらない。
静かになんて、死んでたまるか。