人とコミュニケーションをとるのが苦手だ。特に、そこまで深い関係にない人と話すのがとにかく下手だ。顔見知り程度の人との会話で、何を話していいかわからないし、たとえ相手が何か会話を振ってくれたとしても、それにどう答えるべきかがわからない。なんとかコミュニケーションのテンプレートをなぞろうとするのだが、本当にこれでいいのか、ちゃんと会話になっているのかと考えてしまう。
そんな時に有効なのが愛想笑いである。しかし、私は愛想笑いですら得意ではない。自分の感情が伴っていないのに笑うことに罪悪感がある。面白かったら笑うし、面白くなかったら笑わない。この単純な感情の動きに、場の空気や義務感などの余計なものを入れたくない。そう、私はコミュニケーション下手な上に尖っているという面倒臭い人間なのである。
生活のためのアルバイト、必要に迫られて浮かべた苦手な愛想笑い
しかし、大学生になって、社会というものに片足を突っ込んでみると、どうやらそう尖ってもいられないということがわかった。
私は今年の春から、関西の大学に進学するため、親元を離れて一人暮らしを始めた。それに伴って、生活費を稼ぐためにアルバイトを探した。コロナによって学生が働ける場所は少なくなっていたが、生活に必要不可欠なスーパーはとにかく人が必要なようで、面接後、すぐに採用の連絡が来た。
4月から5月は、みんな外出自粛でスーパーくらいしか外に出る機会がないのか、とにかく多くの客がやってきた。イライラしている人もいれば、自粛期間で人恋しいのか、やたら話しかけてくる人もいた。特に対応に困るのは後者だった。こういう人は大抵お年寄りで、何を言っているのかよくわからない。まくしたてるような不明瞭な関西弁で何か言った後、「カカカカ!」と笑う。無視するのも気が引けて、私は愛想笑いを浮かべるしかなかった。
感情を伴わない行動が苦痛で、聞こえないふりをするようになった
愛想笑いを使わなければいけないのは、お客さんにだけではなかった。スーパーで働くのは、圧倒的におばさんが多い。そして彼女たちは会話において、こちらがどのように答えればよいか明確な問いを投げてくれることはほぼない。独り言とも取れるような、ただ自分が思い立ったことを言って、こちらに反応を求めてくることが多い。思いもよらない方向から、いきなり会話のパスが飛んでくるのである。
例えば、ある時、おばさんが私に「あ~お腹すいた~」と言った。これに対して、なんと答えるのが正解なのか。返答しなくてはならない内容ではない、が、しかし、おばさんは確実に私の目を見て、何かしらの反応を欲している。「そうですか」では冷たい感じがする。「へ~」という万能な相槌もこの場面では不自然だ。どう反応しよう、とぐちゃぐちゃ考え、結局、「ハハハ・・・」とこれと言って意味のない笑いを浮かべる、という反応に落ち着く。私は、彼女たちと話す時に、この「とりあえず笑っておく」という方法を乱用するようになった。
感情を伴わずに笑うことは、私にとって苦痛だった。バイトを始めて最初のうちは、なんとか笑えていたのだが、次第に「どうでもいいか、面倒臭い」というやさぐれた気分になっていった。お金をもらっている以上、お客さんへの対応はなんとかこなすが、パートのおばさんに対しては、愛想笑いをぱったりとやめ、反応が難しい時は聞こえていないふりをするようになった。
祖母とのやりとりで気付いた、愛想笑いの持つ大切な役割
そんなある日、祖母から電話がかかってきた。祖母との連絡は基本的にメールだったので、どうしたのかと思っていると、祖母はこう言った。「この間あなたがメールに『暑いから、農作業の時気をつけてね』と書いてくれたのがうれしくて、声を聞きたくなったの」。
私は祖母へのメールには、野菜を送ってほしい、もしくは送ってくれてありがとうという2種類の必要最低限の文言しか書かないことが多かった。そんな私が気遣いのメッセージを送ったことに祖母はいたく感動して、電話をかけてきたのだった。
あんな短い言葉で、と不思議に思った。しかし、それと同時に、自分のちょっとした言葉が、祖母をそんなにも喜ばせたことが嬉しくもあった。その気持ちを引きずって、いつもは無愛想に相槌を打って終わる祖母との会話も、どこか温かいものになった気がした。
その次の日、バイトでまたもおばさんから独り言のような会話のパスを回された。私はいつものように、それを無視しようとしたところで、ふと、もしかして、愛想笑いは、祖母へ送った気遣いの言葉と同じなのではないか、と思い至った。
私は今まで、笑わなければいけない、という義務感で愛想笑いをしていた。でも、それは間違いだったのではないだろうか。愛想笑いというのは、自分の感情が場の空気に屈したということではなく、私に会話を投げかけたおばさんへの気遣いなのではないだろうか。
義務ではなく礼儀。そう気付いたら愛想笑いができるようになった
笑わなければいけないのではない、笑ったほうがいいのだ。義務ではなく、礼儀。そこに私の感情など必要ない。怪我をした人に大丈夫、と聞くように、結婚した人におめでとう、と言うように、気遣いは時に定型化する。愛想笑いもその一つなのだ。
思えば、私は気遣いというものができない人間だ。何をするにしても、自分のことばかり考えて、相手のことなど後回し。愛想笑いへの抵抗は、相手への気遣いより自分の感情を優先しているからだったのだ。自分の自己中心的な性格が、愛想笑いを良しとしない原因だったのだとわかったら、愛想笑いへの抵抗がぱったりとなくなった。
これから大学生活を経て、完全に社会に出た時、愛想笑いを使う機会は今よりもずっと多くなるだろう。時には、なんで笑わなきゃならないんだ、面倒臭い、という気持ちになってしまうかもしれない。そんな時は、確認し直そうと思う。愛想笑いは、私とコミュニケーションを取ろうとしてくれた相手への感謝であり、礼儀であり、気遣いなのだと。