私と弟にとって、おじいちゃんと呼べる存在は1人。
「空に爆撃機が一つも飛んでいない平和な世界」を願った祖父
母が複雑な家庭で育ったこともあり、父方の祖父しか私たちは知らない。母方の祖父が日本人ではないことは知っている。それ以上は何も知らないし、母から無理に聞き出すこともしない。母にこそ、半生を綴ってほしいと思う(いつか家族や友人を巻き込んで執筆できたらと思う)。
戦争のない時代に、生きるか死ぬか、殺されるかもしれないと枕元に包丁を置いて眠る少女の話は、多くの人の心に響くと思う。難しい家庭で育つ子どもたちの支援の必要性、児童相談所や近隣で見守り強化する必要性を訴えることもできるだろうし、過去のつらい記憶を抱えながら育児に励み、育った環境故に苦しむ大人たちの心を支える一冊ができると私は思う。
私たちに、何度も戦時中の話を語ってくれた祖父はもういない。医療にも、食にも恵まれた時代のわりには、早い死だった。今生きていたら、80歳ぐらいだろうか。
祖父からは、爆撃機から走って林に逃げた話を幾度となく聞かされた。戦時中、小学生だった祖父の話は、実際に徴兵されたお年寄りの話よりもマイルドで、修学旅行で訪れざるを得ない広島平和記念資料館よりも、精神的なダメージは低い。
生々しい表現を使って、子どもたちに「戦争がどれほど恐ろしいことか」を問うことを祖父は一切しなかった。恐怖心を植え付けることをしなかった。
「空に爆撃機が一つも飛んでいない平和な世界」が続くことを願って、私たちに戦争のある時代に生きる子どもたちと戦争のない時代に生きる子どもたちの違いを伝えてくれていた。
最後に祖父は、どちらの世界がいいか、問う。
私たちは、いつも、今の日本を選んでいた。
「こんな思いはさせたくない」と強く願う人の話は、十分届く
母方の祖母からは、夜の世界の話(スナックやクラブ)と、自分を大切にしなさい系の話はたくさん聞かされたが、戦後の話は全くだ。数年前に、肺炎で死去している。
父方の祖母からは、食べるもの着るものさえ厳しい戦後の貧しい日本と、外国へ出稼ぎに行った大人たちの話をよく聞く。今は外国人労働者が日本へやってくる時代だが、戦後は日本人が外国人労働者だったのだ。祖父母が暮らしていた地域は、カナダに出稼ぎに行く大人が多かったと聞かされている。
平和とはなんだろうか。
戦争ってなんだろうか。
子ども時代、深く傷つき「こんな思いを我が子に(孫に)させない」と願う年長者の話は、残酷な表現や生々しく血の匂いがするような言葉がなくとも十分届く。心から強く願っているのだから、その願いを継承したいと、だいたいの人は思うものだろう。
戦争があった時代を振り返ると。これからを担う大人たちの仕事は?
先日、曖昧な関係の彼と映画を観に行った。ベトナム戦争時、オーストラリア軍108人が南ベトナム解放民族戦線2000人と戦った実話をもとにした映画だ。必要以上にグロテスクな表現はなく、エンドロールには、本人写真と演じたキャストの写真やコメントが添えれていて、エンタメとしてではなく、語り継ぐために製作されたものだと感じられた。
隣国の反日問題だったり、人種差別など国際的な課題と火だねになりかねない問題は数えきれないぐらいあるけれど、戦争があった時代を、こうして誰かと振り返ると、いつもじんわりくるものがある。
心から「戦争がない世界って平和だね」だと言える時代にすることが、これからを担う大人たちの仕事なのかもしれない。
人と人の関係、人とモノの関係、人と動物、人と地球の関係。
「キープ女」という切符を「それでもいいや」と、いまだに握りしめている私がこんなことを話すと変だけど「新しく何かをする、行動することでしか解決ができない未来もある」そう思う。
心の中で「このままじゃいけないかも」と思いながら、ただただ思いながら時間が過ぎていく。それでいいのだろうか。
私たちは、空を見上げても爆撃機1つも飛んでいない今日を継承するだけでいいのだろうか。
「戦争がない=平和で豊かな国」という切符に満足をしていないだろうか。
戦争に加担しない、戦争を起こさない。
それだけでは、世界で40秒に1人の自ら命を絶つという現状を変えることも、世界に7億人いると言われる家庭内DVに苦しむ人たちを救えない。
戦争のない国を目指す、続けるだけでは、報われない人たちがいる。
「私たちの国は平和だから」
社会課題から、目を離していい理由にはならないのだ。