私は瀬戸内海に浮かぶある島で育った。
どこを見渡しても山と田んぼばっかりで、電車は通っておらず、移動手段は自家用車あるいは自転車が主である。
そんなド田舎で青春を過ごした私は進学とともに都会に出てきて、体調不良をきっかけに家族や自分のことについて考えるようになった。

働かざる者食うべからず。それも分かるけど、立ち止まることも認めて

私の父と母は性分がまるっきりちがっていた。母は人付き合い苦手、マイペース、ズボラをかけあわせた「浮世離れ型ズボラー」であるが、一方で父は元公務員よろしく真面目、几帳面、厳格という三拍子そろった昭和の男だった。そのため、母が家事や家仕事をサボると烈火のごとく怒鳴った。
「働かざる者食うべからず」幼い頃に学んだ教訓だ。
母は変人として扱われ、私は子ども心に母みたいな人はダメなのだと悟った。休む間なく働くことは絶対であり、「サボる」というのは許されることではないと深く心に刻まれた。

この「働かざる者食うべからず」という言葉は父が何度も口にしていた言葉だ。父は戦後すぐに産まれた人だった。地元の島にまで戦争の煽りがあったかは定かではないが、父の子供時代の話-食べるために家の手伝いをしていたらしい-を聞くと、戦後まもなくは食べるのもやっとで、子どもも働いていた時代があったんだろうと思う。
授業の一環で見た戦争の映像、昔テレビでも放送された映画『火垂るの墓』など、衝撃的かつ心に無数の爪痕を遺していったそれらは忘れちゃいけない「記憶」なのだ。だから、その言葉は汗と血の滲んだ言葉だと思う。けれど、苦労の証としてその言葉を胸に留めつつ、前に進むことも必要じゃないだろうか。

多様性って本当に認められてる?「普通」以外は許されない気がする

今は令和で、多様な生き方や価値観が認められつつある。
でも、本当に認められてる?
例えば、幼稚園から小学校、中学校、高校、大学進学して新卒で就職してそれから定年まで働き続けるっていうのがセオリーであり普通である、という共通認識がないか。どこかでつまずけば、その人は敗者決定で、二度と同じ舞台にあがれないなんてこともある。TwitterやFacebookなどSNSが普及して、どこにいても誰とでも繋がれる時代になったのに、なんだか「普通」がより明確に線引きされるようになった気がするのは、気のせいだろうか。私が見ている世界が厳しく冷たいだけだろうか。

気が向いたらやる、たまにはそんな緩さがあってもいいよね

本人にとって必要なことなら自ずと足が向くと私は勝手に思っている。「働かないとダメだ」と同じように「○○しないとダメだ」の一点張りではなく、見守るとか、そっとしておくとか、困ってそうならそれとなく声をかけてみるとか、しない日はしなくていいから気が向いたらするくらいの緩さでいいんじゃないかと思うのだ。

私はきっと「アリとキリギリス」ならキリギリスだと思う。アリになれたらいいのは頭でわかっているけど、キリギリスの自分はキリギリスでしかない。
島育ちで日陰が好きなキリギリス。
そういうわけで、今日も生きてます。