「〇〇ちゃん可愛いね」、その言葉が嫌いだ。
私は容姿的にもキャラ的にも、かわいい部類ではなかった。
だから、例えば合コンや新歓、バイト入社日など、初めてみんなの前に“お披露目”されるときに、ほかに可愛い子がいると心底嫌だったし、自分の番で「しっかりしてそう」とか、容姿ではなくて性格に触れられるのも嫌だった。

「裏切り」というより、「出遅れてしまった」と思った…

大学デビューに失敗した(別にデビューしようと思ってたわけではないので、成功も失敗もないのだが)私は、仲の良かった周りの子たちが見事に変身しているのに愕然とした。

「ファンデーションなんて、薬局のがなんだかんだ一番良いよね」と言っていた友達のポーチからのぞくのは、シャネルのファンデーション。

「男に媚びるのってバカらしいよね。うちらは田舎もんでも、ありのままを可愛いって言ってくれる人がいるはずだから、そんな人を見つけようね」と言っていた友達は、新歓で面白くもない先輩の冗談ににこにこと笑みを浮かべていた。

それは、裏切られたというよりも「ああ、出遅れた、これからはもっとうまく生きなきゃ」という焦りだった。

それから私も遅れて大学デビューをした。ダイエットを頑張って痩せて、メイクだって研究した。今まで買ったことのないブランドのバックやデパコスも買った。

私の本性はボケキャラなので、今までいたコミュニティではかわいいポジションを確立できなかったが、新しいバイト先や就活のインターンとか、新しい場では「かわいい」と言ってくれる人もいるようになった。

「かわいい」と言われて嬉しいけれど、結局その瞬間だけなの

でも「かわいい」と言われるのは、確かに気持ちがいい。でも、その一瞬だけなのだ。
私のことを「かわいい」と言ってくれた人の顔なんて、覚えてないの。

一方で確かに、私のことを「ブス」「普通だ」と言った奴の顔は、ずっと覚えてるの。

「かわいい」と言われないと、確かに不満だ。
かといって、それだけで満足することは決してない。まるで、生活必需品のようだ。ないと不便だけど、あってもやっぱり嗜好品がなければ満足できない。

「外見で判断しないでよ」という気持ちと「かわいい」と言われなくてむっとする気持ち。
無視してしまえばいいなんて思いながらも、どう思われているのか気になっている自分もいる。

「〇〇ちゃんは本当にかわいいね」とミスコンに出るような、誰がどう見てもかわいい友達を羨ましく思うときもある。

判断基準は、もちろん自分!私は自分が思う「かわいい」を貫く

そんなぐるぐると悩んでいた私は「絶対的なかわいいになろう」と決意した。判断基準はもちろん自分。
私がかわいいと思う自分になるのだ。

それからは「かわいい」と言われるときも、言われないときも気にしなくなった。
自分がかわいいと思うものを、同じようにかわいいと思っている人とも仲良くなれた。
全員からの称賛を、欲しがっているのが無駄だと気づいた。

「かわいいね」その言葉は、私が言われて嬉しい人からだけ、嬉しくなる効力を発揮する。
今は、気にしない人から「かわいい」と言われようが、なかろうが「残念、趣味が合わなかったのね」としか思わない。