自分の経験を通して容姿に対する捉え方が変わったとか、何か気持ちが変わったという結論めいたことは、28歳になった今でもまだない。そもそも容姿に対するコンプレックスを乗り越えることはほぼ無理なのではないかと思っている。しかしこの姿が、誰かの「安心材料」になってくれることはあるのではないだろうか。

芸能人の姉である私は、客観的に見ても美人ではない

私はある芸能人Aの姉である。Aは高校生でデビューし、様々な映画やドラマにメインキャストとして出演している。歌手であり女優で、ファンクラブも何万人かいる。最初に断っておくが、Aとはとても仲が良い。自慢の妹だ。それでも、どうしたって小さい頃から私は彼女と比べられてきた。

「そんなことはあなたの思い込みだ」と思われるかもしれないから、ここで私が浴びせられてきた声の一部をご紹介しよう。「妹はそんな可愛いのに何でお姉さんは…?」「Aちゃんと似てるところといえば、鼻があって目があるところかな」「Aちゃんはお姉さんの3倍は目が大きくて可愛いね」「あなたは残念だったね」「整形したら?」。これを言った人は皆笑っていた。私も笑った。

芸能人として活躍している姉妹も多く、「芸能人の姉妹はたとえ一般人でも美人」だと思っている人もいるだろう。SNSでも、「Aの姉はブスか美人か」を探るコメントを何度も目にした。しかしながら、先程挙げた例を見てもわかるように、私は客観的に見ても美人ではない。

常に誰かより自分が「マシ」だと思いたい

ここまで読んで、ほっとする人はいないだろうか。美人なのではないかと思っていた人が、実は自分と同じレベルだと知った瞬間に得る安心感はないだろうか。
何を隠そう、私がそういう人間なのだ。人と比べて、自分をジャッジする。常に誰かより自分が「マシ」だと思いたい。

そういう思いが膨らんで、高校1年生の時に拒食症になった。
中学3年生まで、体型はぽっちゃり、成績は160人中108番と下から数えた方が早かった。特に取り柄もなかったが、受験勉強をきっかけに成績が急上昇。学年で5番になったことで、周りを意識し始めた。同時に運動も始めたことで体重も減った。拒食症の典型的パターンのひとつだ。やればできる、人と比べて少しでも上にいくことができる、こんな私だって少しでも「マシ」になることができる。自分なりの「マシかどうか」という基準を作っては、自分と他人を比較した。
身長156cm体重58kgだった体は、1年かからず32kgに。1日300kcalのみを摂取し、運動を5時間した。日に日に可愛くなっていると思っていた。誰よりも細くいたかった。そのうち1gでも太ればブスに逆戻りする恐怖が襲ってきた。

その後拒食症からは回復し、大学では成績優秀者に与えられる奨学金をもらった。今は職にも就き、社会生活を不自由なく送っている。

でも、だから何だというのだろう。容姿のコンプレックスがなくなるわけではなく、今でも鏡の前で泣くことがある。夜が遅くなっても運動をし、足首から首まで、あらゆる部位の太さを測る。意味もなく1時間以上自撮りをする。化粧をせずに出掛けられず、コンタクトにしてみたが特にブスが改善されるわけでもなかったので、コンタクトの上からサングラスをかける。妹のファンに顔を見られることが怖い。

自己肯定の呪文が溢れているけれど、そんな言葉で呪いは解けない

「ブサイクも個性」「ありのままの自分が可愛い」「顔が全てじゃない」……世間には自己肯定をさせようとする呪文が溢れているけれど、これらは小さい頃ブスをいじめていた奴らが罪滅ぼしに作った標語のような気がしてならない。そんな呪文で、容姿をいじられてきた者の心にかけられた呪いは解けない。実際には、私は可愛い子の噛ませ犬、引き立て役、そして「こいつは美人じゃない」と笑うことで安心感を得るための存在なのだ。

人を蔑んで笑うことでほっとするなんて、醜い心だと思われがちだが、私に上記の言葉を投げつけた人が無意識だったように、それは誰の心にも潜む感情なのだろう。私自身も記憶を辿れば、冗談を盾にして人を傷つけたことがある。無責任な呪文はいらないから、世間にはそうした感情を認めてほしい。そのうえで、私を笑うことで少しでも楽になるのであれば、構わない。

「個性」だとか「特別」だとかいう言葉で、今更この容姿を見て見ぬふりはできないし、受け入れることもできない。だけれども、人を笑うことで安心するくらい不安な人がいるなら、一緒に笑ってあげたいと思う。これがブスに生まれてきた役割ならば、それを引き受けようではないか。