誰かを好きになることが怖くて、相手から向けられる視線に傷つきたくなくて、愛されることが憂鬱。だけど、相手からはいい印象で見られたい。破綻する結末になるぐらいならば、誰も傷つけないように、最初から深く関わりを持つことをやめようと思っていた。相手にとって、都合の良い顔だけ見せようと、行動するようになった。

相手から期待された人間を演じることは、苦痛ではない。私のメインであるA面を鎧とした。相手にとって、都合の良い鎧を身につける。自ら鎧を纏うことは容易い。

だけど、心では「鎧をつけていない本当の自分を知って欲しい」という身勝手な欲望が、私のB面に存在している。

自分の中にある「優しいA面」と「自己中心的なB面」を使い分ける

私のA面は、周囲の人を傷つけないように、耳障りだけ良い優しさで溢れている。本当は、汚い雑音だらけの自己中心的プライドなB面を持ち合わせている。

好きでもないのに興味があります、許せない態度なのになんてことないへっちゃら、ハラスメントをされても私が我慢すれば良い、といった対応をとってしまう。相手が心地良くなるような言葉がけと態度。擦り切れるほど聞いた面白くない話に「初めて聞きました、面白いですね」と返すように。

回り回って周囲の私への評価が良くなるように、自分の価値が、他者評価で高まるような錯覚に酔いしれる。相手に合わせることで、満足をしていた。自分の心が傷ついても、自分の心の快適さを優先させるよりも、“社会からどう見られるか”が重要事項。自分で自分を傷つけていたことに気がついたときには、もうボロボロだ。

一人でいたい。でも、一人でいるためには、誰かに好意を向けられていないと満足しない。期待されることが億劫で、一人でいることを選んだはずなのに、誰にも興味を持たれないことはもっと恐怖。

いつの間にか自分についた「嘘」に、私は傷つけられていた…

くしゃくしゃに丸められて投げ捨てられたプライドは、欲望がみっちり書き殴られていたようだった。“見栄”、“本当の私”、陳腐な歌詞のようなものは、聞き飽きて封印したはずなのに、相手に知ってもらいたかった。私が私に嘘をついていたことも、相手にとって都合の良い人を演じることも、果たして意味があるものなのか、分からなくなった。残ったのは、私が私を傷つけていたということだ。

ヤマアラシは、針があるにも関わらず、暖を取るためにくっついいたり離れたりを繰り返して、痛みながらも暖め合う。失敗を繰り返しながらも、適合する距離を見つけることができた、という寓話がある。

まずは、傷ついても怖くない感覚を身につける。そして、良い距離感を身につける。その後に、心地よい人間関係を築くことが、できるかもしれない。

これからは、自分を愛するために「取り繕った私」を手放そう

職場で飛び交う、一個人の意見を常識だと進められる話題。「結婚しているみたいだけど、まだ子どもいないの?」「子どもを持つ気あるの?」など、今までは笑いながら流していた。ある時、無言で何も言わずに対応をした。「不快な話題だった」と、態度で示すことができた。

態度で抵抗を表したとき、私でいることができたような気がした。気まずい雰囲気になった瞬間は、息が苦しくて胸が痛んだが、後の気が楽だった。今まで相手に合わせたA面から、B面である本当の意見を伝えることができたのは、私にとっていい体験だった。

後日、話題をふってきた相手から「あの時は嫌な気分にさせてしまった」と、言葉をいただけた。相手と良い距離を保つことができた瞬間だった。勇気を持って態度で「不快だった」と示すことが、良い結果に繋がった。

自分を愛するためには、取り繕った鎧を手放す。そして、相手を少しだけ信頼してみること。

上面のA面ばかり流していても、本当の好きな曲は見つからないように、B面を流して、自分の魅力を発見してあげることも必要だ。