強くなりたい。
これは心がやや過敏で、刺激に弱い私が長年掲げてきた目標だった。黙然として何事にも動じず生きていくという、いわば硬派な強さに絶対的な価値を見出していた。これ以外の“強さ”の可能性や、そもそも強いとか弱いとは何かなんて、考えもしなかった。

私は強くなりたくて、自分の「弱さ」を表に出さず耐えていた

この強さを獲得したいがために、自分のお尻を蹴っ飛ばしてしごき、冷たい滝の下で黙って耐え忍ぶというようなイメージで、困難にぶつかったときには自分を鍛えてきた(つもり)。涙も弱音もご法度。

今思えば、硬い殻を纏い自分の弱さを表に出さず耐えるというスタイルは、自分の弱さをオープンにしていくことへの恐怖の裏返しだったのかもしれない。

私が中学校の頃、ある女の子に出会った。正直なところ、最初はその子のこと「強い」とは全く思えなかった。優しくて繊細で、他人のために涙を流すことができて、押しも強くない。

私はその子を見ながら「そんなことで泣くなんて!」「もっと自分の意見をはっきり持たないと!」「え、そこまでオープンに悩みごと話しちゃう?」などと感じていた。でも、なぜかよく気が合った。

強さ耐えるだけじゃなく、弱い自分も素直に出せることも強いのかも

交流を重ねるうちに、彼女は部活の人間関係で悩んでしまったことも、勉強でぶつかってしまった壁についても赤裸々に話してくれた。私自身、悩みを自分の中に溜め込んで解決しようとするタイプだったので、その素直さに初めは驚いた。

そして気が付いた。彼女は圧倒的に強いのだと。何がすごいかって、彼女は自分の弱い部分をさらけ出すことができるのだ。

これは私には、不可能だった。自分の弱さをオープンにするなど恐怖でしかないし、自分にはできないと気が付いたとき、私の求めていた強さなんて硬いが脆いものであったのだと愕然とした。

しなやかだが崩れることのない“強さ”も存在するのだと、価値観がひっくり返されたようだった。ガチガチに鎧で武装しているのに実はへっぴり腰の私と、丸腰なのに堂々としている彼女。どちらが本当に“強い”のだろう。

「弱さ」をさらけ出せることだって、立派な「強さ」なのだ

この気付きは、彼女のことを知るクラスメートにも話してみたけれど、彼女が“強い”という部分には賛成してもらえなかった。

確かに今の世の中では、前にどんどん出て突き進み、弱みを見せず困難を乗り換えていくというのが“強さ”の一般的イメージかもしれない(この点では私の強さイメージもこれに近いものだったのだかな)。いや、でも私は彼女を“強い”と思う。弱さをさらけ出せることだって、立派な強さなのだ。

実際のところ、今でも私は自分が納得できる“強さ”を手に入れてなんかいないし、そもそも“強さ”って何なんだろうともがき続けている。多少は周りの人に悩みを相談できるようにはなってきたけれど、やはりまだ弱みを見せることへの怖さはある。

自分が今まで求めてきた硬派な強さへの憧れも未だに強い。でも、今もなお良い友人である彼女が提示してくれたもう一つの“強さ”の可能性は、以前よりも私の心を軽やかにしてくれた気がする。