夏休み、電車の窓からの景色。静かなみずみずしさが漂っている気がした

 今年の春、二十年近く住み続けた東京を離れて、新たな土地での暮らしを始めた。大学に通うための転居だったが、移ってしばらくは外出もできず、授業のためにただただ液晶を見つめるばかりで、わたしがようやく外の世界へまともに関心を向けたのは、夏休みに入った頃だった。窓から吹き込む風に、夏のかぐわしさを感じてはいたけれど、今年はまだ体中から汗が噴き出るようなことをしていないとぼんやり考えていたところに、ふと自分の敬愛する作家の出身地がすぐこの近くであったことを思い出した。約二十年前、ちょうどわたしが生まれたころに亡くなったその作家のお墓が、たった三駅先の土地の小さな山の上にあると知って、わたしはいそいそと出掛ける仕度をした。

 電車に乗っている間、今までにないくらい親しみを込めて、窓の外の風景を眺めた。きっと彼女が暮らしていた頃とはまるで変っているだろうけれど、どこか彼女の文章の持つ静かなみずみずしさのようなものが辺りに漂っている気がした。目的の駅で降りて、少し寂れた商業施設の裏にある小さな花屋で供花を買った。そこからはバスに乗って、作家の眠る山の上を目指す。

お墓参りという形で、自分は一対一の関係に持ち込もうとしているのだ

 山道特有の急カーブに体を揺らしながら、自分の買った花束を見つめていると、ここへきて突然、大それたことをしているという気持ちが湧き上がってきた。親戚でもないのに、一読者がお墓を訪れてよいものか。いやそんなことよりも、わたしが緊張感に襲われたのはきっと、それまでは一読者として、不特定多数の一員として作家に関わっていったのを、お墓参りという形でこそあれ、直接相手を訪れるという一対一の関係に自分は持ち込もうとしているのだと気がついたからだ。大げさと言われればそこまでなのだけれど、ただ自分の部屋で頭の中で誰かの言葉をなぞっている時と、その誰かのために花を買い、大地を踏みしめて体を動かしている時とでは、心のありようはまるで違う。そして、誰かに強い憧れを抱き、相手のことを本当の意味で「知りたい」と思ったとき、人は実際そのように自らの身体を通じて相手に歩み寄りながら、口で言うよりも遥かに大きい葛藤を経験するのだと、わたしは未熟ながらも理解している。

 同じ他者理解を出発点にしていても、本を読むことと、誰か生身の人間を理解しようとすることの間には、やはり大きな違いがある。本を読むことは昔からずっと、わたしにとってなにより大切な喜びだ。多くの人にとってそうだろう。本は人に自分一人では持ちえなかった新たな視点を与え、読み手の人格を育む。読み手がどのような理想を、共感を、救いをそこに見出そうが、書物は黙って受け入れてくれる。貴重な人との出会いも同じように人を成長させるが、そこには現実に反逆される危険性が常に付きまとっている。 

その人のようになろうとして、自分の一部分を自らの手で葬り去った

 この本を読むまで、いったい自分はどんなふうに物事を考えていたのだろうと思わせてくれる書物には、いくつか出会ったことがあるけれど、同じように思わせてくれた人物となると、一人しか浮かばない。他者理解には、喜びだけでなく灼けつくような自己否定も伴うということを、わたしはその人物との関係を通して学んだ。その人物に強烈な憧れを抱いた結果、わたしはその人のようになろうとして、自分の一部分を自らの手で葬り去ってしまった。それはたとえば、穏健なものの考え方であったり、友人の選び方であったり、音楽の趣味であったりする。相手から要求された部分もある。わたしとその人はもともと似ていなかったわけではない。どこかでお互い通じるものがあるかもしれないと直感して期待したぶん、過度な同一化をそれぞれ求めてしまった。相手に近づくためには邪魔になると考えて自身の一部を自ら否定したわけだけれど、たまにふとそんな昔の自分が好きだったものが亡霊のように夢に浮かび上がってくる。そうして疑問に思うのは、そうまでして果たして自分は本当に相手に近づけたのか、ということだ。

 人間の世界に憧れて王子に恋をした人魚姫は、魔女と契約を交わし足を手に入れるも、結局は人間になりきれず、泡となって消えてしまう。本来の自分の姿である人魚の体と、自分の心を伝える声を失いながら。泡になるまではいかずとも、現実の人間の関係においてもこうした悲劇はみられるのではないだろうか。どうしたって違うものは違うのだ。

お墓を見つめ、懐かしい亡霊たちにさよならを言って良かったと思った

 それでも、わたしは自分の懐かしい亡霊たちにさよならを言って良かったんだと、作家のお墓を見つめながら思った。誰かに強烈に憧れるという経験をするまでのわたしは、好きな作家のお墓を訪れたりするような人間ではなかった。どうしたって相手にはなれないと気づいた先で、わたしはその違いを超えて相手と心を通わせる瞬間の本当の喜びを知った。そして、自分を捨てて他者を受け入れようとした経験は間違いなく、わたしを強靭なものにした。他者と向き合うことは見かけよりもずっと重苦しく、忍耐を必要とする。でもそうすることでしか見えない世界がある。

 あなたと直接お会いすることはもうできないけれど、かつてこの土地で暮らしたあなたの文章を、あなたがそこに込めたものを、読み抜きます、読ませてください。手を合わせて、そう誓った。