自分の可愛いところは何だろう。他人から褒めてほしいところは何だろう。エッセイのテーマでもあるので考えてみたけれど、何一つ思い浮かばない。
私「が」可愛いと思うものはたくさん出てくる。友人からプレゼントされた白熊の抱き枕や手書きのイラスト、お店で見つけたマスク入れ、道端ですれ違う時に初対面の私に微笑みをくれた赤ちゃんなど、挙げだしたらきりがない。なのに、いくら考えても私「の」可愛いところが一つも思い浮かばないのだ。
困った。これではテーマに沿ったエッセイを書くことができない。何か策を考えねば。そうだ、私「の」可愛いところを探すために過去の自分を振り返ってみよう。

人とうまくコミュニケーションがとれず、自己嫌悪が募った日々

思えば10代、20代と私は自分に対して好きと嫌いを繰り返してきた。嫌いと思うことがほとんどではあったが。私は人見知りで自分から他人に話しかけることができなかった。話しかけられてもうまく言葉を返すことができないために会話が続かない。思春期真っ只中である中学生の頃など、数少ない友人に対して、自分の中の正義感を優先して余計なお節介をして友人を傷つけたり、クラスメイトに対して余計な気を回し過ぎて逆に変な空気にしてしまうなど日常茶飯事だった。

上手に立ち回ることができない自分への自己嫌悪が募る。どこにも吐き出すことのできない怒りを心に燻らせて、何に対して自分がイライラしているのか分からない時もあった。例え用のない不安に押しつぶされそうになった日もある。
学校という限られた空間で他人と関わり、自分の常識が他者の常識であるとは限らないことに気づかされていく。中学生当時は、相手の考えを受入れて認めることができず、自分自身を正とするために他者がおかしいのだと決め付けていた。そりゃあ、コミュニケーションなどうまくいくはずがない。

ある言葉がきっかけで、他者への考えが変わった

私の考えが変わったきっかけは、高校生の時に観たテレビ番組で出演者が言っていた言葉だ。残念ながら記憶が曖昧で一字一句その人が言った言葉を覚えているわけではない。
その人が言っていたのはこういうことだ。
「他人は他人であり、自分とは違うわけだから考え方も違って当然。相手が他人だと認識していれば、意見が違うことも認められる」

 
この言葉がまるでパズルのピースがハマるみたいに私の中にストンと落ちてきた。そうだ、相手は私ではないのだから考え方も意見も感じ方も違って当たり前じゃないか。だとすれば、相手と意見が食い違ったとしてもしょうがない。私には私の言い分があり、相手にも同じように言い分がある。それを受け入れるかどうかはまず置いておいて、違う意見を聞くのは自分の見聞を広めることにも繋がるから聞いておこう。聞いた上で意見を受け入れるか否かは決めればいいや、という風に考えることができ、相手の話を聞くことができるようになった。

もちろん直ぐにできるようになったわけではない。未だに人と関わり合う中で、話を最後まで聞かずに拒否してしまいそうになることもあるし、他者に対する好き嫌いも出てしまう。その度に自分の器の小ささを思い知り、落ち込むこともある。
いっそ器の大きさをレベル別にして、地球上に住む全員の頭上に表示されるようになればいいのに。事前にレベルがわかれば心構えができて対処方法を考えたり、諦めもつけられる。

短所も含めて「私は私」と受け入れられる自分が可愛い

話がどんどんテーマから逸れていきそうだ。私は何が言いたかったのだろう。何事も考えてから行動することが多い反面、文章を書いたりするときは見切り発車でとにかく書き始めてしまう。とりあえず書いて見直せばいいと思いながら書くのだが、見直すことがあまりないので意味がない。そうそう、私「の」可愛いところを見つけるために過去を振り返り、私の他人と関わる上で転機となった話をしたのだった。

回りくどくて要領が悪い。好きなことに夢中になると周りが見えず、走りだすと止まらない。人の目を気にして思うように行動できないこともあるし、何気ない一言に傷つきウジウジと落ち込み続けることもある。
だけど、そんな私「が」私「は」好きだ。相手の話をとにかく聞こうとするところ、失敗もするし何もできないけど、寄り添おうとするところ。そして、嫌いなところも含めてそれが私だと自分で認めているところ。いや、認めよう、受け入れようとしているというのが正しい。

私は私、自分が歩んできた過去も含めて今の自分を受け入れようとしている私を、私は可愛いと思うのだ。