自分の身体に欲情してみたい。
ウエディングドレスを試着したころから、なんとなくそう思うようになった。はじめは単なるおふざけ、バイセクシャルなのに女のひとと経験しないまま男性と結婚するという選択をした我が身を、ちょっともったいなかったなー、でも不倫はしたくないし、自分も女体なんだからもう自家調達するしかないかねえ、なんて冗談半分ではかなんでいただけだったが、だんだん真剣になってきてしまった。自分の身体に欲情することこそが、いまのわたしには切実に必要な気がする。

女体のうつくしさを愛するように、自分の身体を愛するには

女のひとの身体って、ほんとうにきれいだ。サイズのさまざまなコンパスだけで描ききってしまえそうなシルエット、その稜線のきらめき、液体が身体じゅうに満ちてとよとよとやわらかに重たい感じ。
しかしそれはあくまで、自分以外の女のひとは、という話に限られる。女体が好きだからといって自分の身体まで好きになれるわけではなく、鏡はいつ見てもうんざりする。自分の容姿は、いつも想像より少し猫背で、想像より少し目が小さく、想像より少し顎が突き出している、その不随意さが怖い。
それから、欲情のこともよくわからない。相手が男でも女でも同じだ。好きなひとに触れたいという気持ちはあっても、セックスするために努力するとか、とにかく今このときにセックスがしたいとか、そういう意欲はどうしても持てない。女のひとの身体がどれだけ好きでも、ただきれいだなあと見とれているだけだ。
もうすこし自分の容姿を好きになってみたい、それから燃えるように欲情してみたい。それで、「自分の身体に欲情する」という考えが浮かんだとき、このことが思春期から引きずってきたこのふたつの課題を一手で解決してくれるのではないか、と思えてきたのだった。

自分好みの身体になれば、自分に欲情できるのか?私が始めた試み

まず、自分の裸体を観察してみる。おせじにもスタイルがいいとはいえない。胸が大きいわりに左右に離れているせいで間延びして見えるのも好きじゃないし、背中がむっちり大きいのもイヤ。強いて好きなところをみつけるとしても、手首のうらにうっすら筋が出ていてきれいということくらいで、総体としては全然そそられない。そこで、ためしにトレーニングをしてみることにした。わたしは比較的筋肉質な女性が好きで、そもそも自分の身体がタイプではないのだ。
するとなんとこれが成功をおさめ、成人以来ミニマムの体重を記録してしまった。ふしぎなもので、これまでダイエットには成功したためしがなかったのに、「自分の身体に自分で欲情する」という動機がわたしをやたらに勇気づけた。少なくとも、「他者からきれいだといってもらう」とか「結婚式でいい写真を残す」とかいう目標より、よほどわくわくした。
しかし、痩せたからといって自分に欲情できるかといわれたら、できない。経過観察で自分の裸に見慣れたおかげで鏡への抵抗は多少減ったけれど、性的な目というよりは盆栽のチェックになってしまう。考えてみるに、わたしの性欲はかなり恋愛感情と紐づいているようで、ということは自分に欲情するためにはまず自分自身に恋をしなければいけない、ような気がしてきた。うーん、それはちょっと人格が輪郭をなくしそうで怖い。

挑戦はまだまだ終わらない。欲情プロジェクトはつづくよ、どこまでも

現状、その地点で「自分の身体に欲情する」プロジェクトは低迷している。けれどいいこともあった。まず、自分の身体を認識しなおせたこと。自分の可動域やほくろの位置を知るたびおどろいたし、欲情の練習と思ったおかげで生まれてはじめて性器のかたちを注視できた。未知の地帯のフィールドワークのようだ。そもそも、わたしは自分の身体をほとんど見ずに過ごしてきたのだった。
すると、恋とはいかないけれど、自分の身体に対して他人事のような親近感は持てるようになった。やあ、きょうはすこし水っけがあって重いね。やあ、きのうより首がすっとしてきれいじゃない? パーツごとにばらばらに見ていけばたまにぱっと映えて見える瞬間もあり、いまのところこれがいちばん欲情に近いといえば近い。ただし、自分の意思で動かせた瞬間にさらっと醒めてしまうけれど。

しかしまだ懲りてはいない。来月には美容院を予約していて、はじめてショートカットに挑戦しようと思っている。わたしは筋肉質でショートカットの女性がもっとも好きだし、それ以上に、自分の身体に欲情しようとする試行錯誤自体が楽しくなってしまった。他人を口説く楽しさに少し似ているかもしれない。いつか自撮りでヌード写真集を作りたい。そして誰にも見せずにひとりでこっそり楽しみたい、もちろん、うんと興奮して。