私は処女である。穢れはまだない。
みなさんは、「処女を卒業したのはいつ?」みたいな見出しの統計グラフを見たことがあるだろうか。このエッセイにたどり着いて下さった方は、きっと「処女」で検索をしたことが一度はあるはず。私はめちゃくちゃ検索した。大丈夫、あなたは独りじゃない。
どちらがマジョリティなのかと考えたことがある。多分、統計図でカウントされている方の女性が大多数なのだと思うけれど。考えたって、私の今の状態が変わるわけではないのだけれど。
”処女の私は穢れの無い神聖な存在” 暗示をかけて不安をもみ消した
不安だった、ただひたすらに。今まで付き合った恋人の数と、私の身体の状態はチグハグである。いつも女神や女王や、そんなような神聖なものとして扱われることが多かった。べつに特段、恵まれた容姿ではないのに触れることもためらわれて、綺麗に綺麗に。持ち上げられることは気持ちいいことだけれど、身体を一度も持ち上げられたことのないまま、現在進行形で据え膳の山が増えている。
据え膳の山が膨れ上がるのに比例して、プライドもエベレスト級になっていった私は「処女卒業=穢れること」と思い込むことにした。"まだ"私は穢れていない、そうやって暗示をかければ不安にはならない。私には価値がある。強大なコンプレックスを、いつからか自分のステータスだと錯覚した。
矛盾した想いを大切に抱きかかえて、処女のまま恋人だけが替わる
男性を見下す気持ちも確かにあった。最初に私の身体を触ったのは恋人ではなく、知らない男性だったから。好きな人のアダルトな部分には全然到達出来たことがないのに、見ず知らずの男性の、見たくないものばかり沢山見せられてきた。見たくないものは汚いもの、汚いものを体内に受け入れるのは穢れ。そうやって、間違った方程式で自分自身を慰めた。
眼前の行為と世の中の情報に困惑し、待てど暮らせど膜を破りたがらない恋人に疲労する。自身の年齢が二十歳に近づき始めると焦りにも拍車がかかり、どんどん恋人を替え、どんどん自分自身の処女性を神格化し、気が付けば私のプライドはエベレストをも楽々と超える強固な山を築き上げていた。これじゃあ、誰も登っては来れまい。
一世一代の告白も、結局私は断ってくれる人を選んでいた
というような上記の話を全て、好きになった人に一度だけ話したことがある。結婚して子どももいる、明らかに"非童貞"の男性に。「私が選んだ男だ。お前に奪われるなら本望だ。登ってこい。」という生意気な、一世一代の素直な告白だった。
けれど、「君はそのままでいい、穢れたままでいい」と言われた。
そのまま、というのはつまるところ"処女の私"のことか。あなたは処女に価値を見出すタイプの男なのか。処女の私の、一体どこが穢れているというのか。そのままでいい、じゃなくて、今すぐ奪えよ。そうしたら楽になるから。もう悩みたくないから。
その非童貞の男性は、私を神格化しなかった。ただひとりの、10代の、今にも不安に押し潰されてしまいそうな脆い"人間"として扱った。シンプルで優しい断りだっただけに、相当辛かった。実際、私は脆かったのだ。今まで誰にも言えなかった悩みをその人にだけ打ち明けたのだって、もちろん大好きだったからというのもあるけれど。彼が私の誘いを断る、確固たる倫理的な理由があるからだ。プライドのデカさが、自身のコンプレックスを打ち明ける起因になった。
私は処女、ただそれだけ。こだわりすぎて穢れていたのは私だった
みんな私を神聖なものとして扱いやがって、と最初は思っていたのに。私の処女性を一番神格化していたのは結局、他の誰でもなく、私自身だった。奪われたくない、でもさっさと誰かに奪ってもらいたい。ウジウジと据え膳を蓄え続け腐りきった心は、もしかしたらすごく醜かったのかもしれない。処女とか非処女とか関係なしに、私の心は普通に人として穢れていたのかもしれない。
けれど「そのままでいい」という人がいてくれるなら。神格化しなくたって不安にならないのなら。他人を貶すことはやめて、山は壊してそのまま、ただありのままに生きることに挑戦してみたい。
私は処女である。ただ、それだけのことである。